1989年4月16日、復活節第4主日
(当日の神戸教会週報に掲載)
(牧会31年、神戸教会牧師12年、健作さん55歳)
サムエル記上 17:31-49、説教題「ダビデとゴリアテ」岩井健作
”イスラエルに、神がおられることを全地に知らせよう”(サムエル記上 17:46、口語訳)
「桃太郎」のお話と言えば、日本人は心の底から馴染んでいる。
それと同じように「聖書」を文化の底に持っている民族や人々にとって、「ダビデとゴリアテ」のお話は、慣れ親しんだ伝説である。
『旧約聖書と様式史』(G.M.タッカー著、飯謙訳、教文館 1988)によると、「エリシャ物語」「サムソン物語」そしてこの「ダビデとゴリアテ物語」などは、典型的な偉人伝説であるという。
素朴に、サムエル記上17章1節から18章5節までを読んでいて、筋がぎこちないところがあったりするので、いくつかの伝承を、サウル王からダビデ王に代替わりをしていく歴史を描くために、あるいはダビデ王の偉業を讃えるため、長い間にわたって編者たちが構成や編集をしたものであろう。
また、解釈史の厚さも大変なものである。
ある旧約聖書学者は、低い文化水準(イスラエル・青銅時代)と高い文化水準(ペリシテ・鉄器時代)との過渡期現象を指摘する。
歴史家アーノルド•トインビーは、軍部を誇って新しいものを見抜けなかった軍事経験主義者をゴリアテに読んで、文化の盛衰を見るという。
また、ダビデの巧みさは、陰険で腹黒く、正々堂々と戦わないゆえに、ユダヤ人の典型だという反ユダヤ主義者もいる。
しかし、我々は、原初の物語が含んでいる、羊飼いの少年ダビデを導き支える神の物語として、読むことを促される。
語り伝えられた物語というものは、その細部(ディテール)で、様々な想像をもたらす。
動く要塞、巨大なペリシテの男ゴリアテの威嚇は、現代の神経戦に似ている。
勇者サウルもイスラエルの勇士たちも、恐れにうち沈まされている。
力に破れることなしには、神は顕(あらわ)にはならない。
”神がわたしたちの味方であるなら、だれがわたしたちに敵し得ようか。”(ローマ人への手紙 8:31、口語訳)
「神がわたしたちの味方であるなら、だれがわたしたちに敵し得ようか」(ロマ 8:31)という時の「神」は、十字架の上なる神、無力な神である。
この世の力への無力さの極みにあるイスラエルであればこそ、「イスラエルに神がおられることを全地に知らせよう」(サムエル上 17:46)の言葉が生きている。
”イスラエルに、神がおられることを全地に知らせよう”(サムエル記上 17:46、口語訳)
この物語は原初、聖戦の思想で語られたのではあるまい。
聖戦の神学の漂いを担わせてはならない。
神は人の弱さの極みに在(い)まし給う。
その信仰を、この物語は取り戻させる。
サウル王とダビデとの出会いも劇的である。
王(権力)の命令にも関わらず、慣れていない武具を外して、羊飼いとして(生活の持ち場で)身につけたものだけが、ゴリアテに対する少年の佇まいである。
その他、読み返すほどに目を開かれる、信仰の宝庫にも似た物語である。
(1989年4月16日 本日説教黙想のために 岩井健作)
1989年 説教・週報・等々
(神戸教会11〜12年目)