『無神論者のための福音』ロマドカ(フロマートカ)著、山本和訳(新教出版社 1964年)
「宗教部報 第9号」1964年12月15日号、同志社大学
(牧会7年、呉山手教会牧師5年目、健作さん31歳)
<日本基督教団 戦争責任告白の3年前>
「わたしの日本訪問後しばらくして、小著『無神論者のための福音』への短い序言を寄稿しうることは、まことに欣快にたえない次第であります。…この本はヨーロッパ的経験や観点から書かれたもので、それがどこまで日本のキリスト者にお役に立ちうるのか、わたしにはわかりません。しかしわたしは、それがわれわれの精神的危機の根源を説明すると同時に、われわれが懸命にそれと取り組もうとしている格闘の仕方を説明するのに役立てばよいがと望んでおります。」きわめて謙虚に、書き始められています。
1947年。ヨーゼフ・ロマドカは、その亡命からつまりプリンストン神学校教授の安定した生活から多くのあこがれの地位を捨てて、革命途上の祖国チェコに帰国しました。57歳の時です。ナチでは逃げたが、マルクス主義では飛び込んだ、といわれるロマドカのその決断は、20世紀キリスト者の忘れ得ない一つの範例でしょう。何故なら、二つの大戦の破局、1917年に始まる革命が現わにした西欧文明の精神的、道徳的危機を超克して生活の革新をはじめることがわれわれの時代の出発なのですから。悩み、あるときは逃げ、飛び込み、とまどい、戦い、組織し、そして活動する。その生涯を通じての氏の現実的な格闘の仕方を私は言っているのです。そこから氏の思想・神学を考える手がかりが得られます。「宗教改革者(フス、コメニウス)に帰れ!」「信仰告白と同時に行動を」「兄弟の交わり」「西欧教会への批判」「絶えざる自己検証」など。
さて、著者は革命的な社会主義的無神論のパトスを西欧人の自由思想的無神論と明確に分界づけることから始めます。このパトスは国家教会への抗議であり、無神的教会の鬼子ですらある。これが不吉な真空になるかどうかは全く未解決なままの問いである。この無神論に抗争していわゆるキリスト教的世界観の前線を築いたり、教会を共産主義国家形態に反対する文化十字軍の同盟者に動員することが、いかに福音そのものの悲惨な誤解であることか。無神論者とのかくの如き出会い方を、全力をこめて、断固たる態度をもって拒否しなければならない。マルクス主義的人間の実体は、人間を経済的・社会的隷属から全体的に解放するための闘士であって、われら自らが無神論者と同一平面に立っている。イエスは、われらのもとに来たり、身をおき、罪との連帯を現わにされた現実的信仰の前線は、教会の基礎に潜む不気味な不信仰への問いにこそある。そして、人間を人間から分離し、人格的出会いを不可能にするものを取り除くことこそ、ひとりのキリスト者の使命である。というのが要旨です。
本論に続く「与えること」という説教はこの線上で魂にこたえます。訳者の「解説」はよい手引きです。この本の問題意識を日本のキリスト教が日常のレベルにまでよく咀嚼して出発するために、入門者の姿勢で読んでいい本です。
(岩井健作)

