とりなしのある人生《ローマ 8:26-30》(1992 週報・本日説教のために)

1992.6.14、神戸教会
聖霊降臨節第2主日

(神戸教会牧師15年目、牧会34年、健作さん58歳)

 水俣病の苦海を意識の中枢に据えて文学活動を続けている作家に石牟礼道子さんがいる。

 石牟礼さんの『花をたてまつる』(葦書房 1990)に収められた一文に、「不知火海より手賀沼へ」という講演記録が載っている。

 その最後のところで、シンガポール・マレイ街の遊女街を同じ時期に訪問した二組の文学者夫婦の書き残したものから、対照的な心のありようを見ている。

 一方の与謝野鉄幹さん与謝野晶子さんは、遊女をあさましくて見られたものではない、と高みから言い捨てる文学者だとして、「これはひどい」と石牟礼さんは批判している。「ねいもうな怪物ばかり」「あなさがな、悪しきは数え候うまじ」と遊女について与謝野夫妻が語った言葉を挙げています。

 他方で石牟礼さんは、徳冨蘆花さんと夫人・愛子さんの言葉には、かなしみの切迫のようなものがあり、打たれると言っている。

 そして、石牟礼さんは、何一つ解決されていない水俣病を思い、また太平洋戦争下の兵士を思い、「故国に対して何かを断ち切って、断念して、朽ち果てて往った人々の思いによって私たちは生かされているのではないか」と語っている(石牟礼道子『花をたてまつる』葦書房 1990)。

 この文章を読みながら、私はローマ書8章22節の「被造物全体が、今にいたるまで共にうめき共に産みの苦しみを続けていることを、わたしたちは知っている」との言葉が重ね合わさって心に残るのを覚えた。

 ”実に、被造物全体が、今に至るまで、共にうめき共に産みの苦しみを続けていることを、わたしたちは知っている。”(ローマ人への手紙 8:22、口語訳)


 先週も触れたように、私たちが生きている歴史の未解決な問題を、神がもたらす終末的な救いを信じ「待ち望む」ゆえに共に苦しむことから目を逸らしてしまって、宗教的(観念的)領域だけで救われてしまう信仰者のあり方を、パウロは厳しく批判している。


 さて、ローマ人への手紙 8章26節・27節は、その文脈で読まれねばなりません。

 ”御霊もまた同じように、弱いわたしたちを助けて下さる。なぜなら、わたしたちはどう祈ったらよいかわからないが、御霊みずから、言葉にあらわせない切なるうめきをもって、わたしたちのためにとりなして下さるからである。そして、人の心を探り知るかたは、御霊の思うところがなんであるかを知っておられる。なぜなら、御霊は、聖徒のために、神の御旨にかなうとりなしをして下さるからである。”(ローマ人への手紙 8:26-27、口語訳)


 26節の「弱さ」は何を意味しているのでしょうか?

 「祈り」が不足し、未熟で、熱心さが足りない人間的な「弱さ」ではありません。

 当時、初代の教会では「祈り」は充分整えられていました。

 この「弱さ」は「霊的熱狂主義」からの誘惑への弱さです。

 「異言」(コリント第一 14章)による祈りは、キリスト者の集会の豊かさではなく、「弱さ」なのだと指摘されています(『ローマ人への手紙』E.ケーゼマン、岩本修一訳、日本基督教団出版局 1980)。

 これはパウロの鋭い批判です。

 文学者が文学的領域ではすぐれているが、遊女のかなしみに同感しないことへの批判と同じように、異言の祈りは、宗教的領域ではすぐれているが、被造物のうめきと切り離されてしまうのです。

 「聖霊」がうめきをもって我々を「執り成す」という意味の深さに思いをめぐらしたいと思います。

(1992年6月14日 週報掲載 岩井健作)


《岩井健作牧師》

 6月15日(月)16日(火) 教団より「沖縄教区」訪問のため沖縄出張。

 6月14日(日)午後、神戸教会の宣教を考える会。


1992年 説教

1992年 週報

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