待ち望む《ローマ 8:18-25》(1992 週報・本日説教のために・ペンテコステ)

1992.6.7、神戸教会
聖霊降臨日(ペンテコステ)

(神戸教会牧師15年目、牧会34年、健作さん58歳)

 この箇所は「ローマ人への手紙」という山の、言わば頂のように思う。

 何故なら、ここにはキリストに属する者の苦しみの理解をめぐって、非常にユニークな思考が結晶しているからである。

 キリスト者はどのような苦しみの最中でも、イエス・キリストにある神の愛から引き離されることはないとの確信に充ちた結論へと導かれ、そのような希望へと導かれるのは「聖霊の執りなしに支えられている」という、苦難と希望との根拠が語られている。

 この箇所には、信仰者の骨格を養う終末論と聖霊論が示されている。


 8章18節。「今のこの時」は単に常識的な現在、主観的な苦しみの時ではなくて、イエスによって神の支配の宣教が開始され、やがて神の与える終わりが信じられている歴史の「時」であり、信仰の現在の「時」である。

 19節。「被造物」。人間以外の自然界の被造物。

 「待ち望んでいる」は本来動物が首を伸ばして前方を伺っている様を表現する言葉。

 20節〜21節。「虚無に服した」は「退廃によって、その本来の目的が達成できなくなった」の意味。

 22節。「うめき」と「産みの苦しみ」は、被造世界に対する洞察。

 23節。「最初の実」(新共同訳では「初穂」)。本来は祭儀の奉納品を示すが、ここでは逆に、神から人への約束の贈り物の保証として与えられているもの。


 パウロは何故、信仰の特質を、被造物を含めた現実の苦しみを負うこと、そして、それを共に苦しむこと以外に、霊を受けることはないと強調したのだろうか。

 そこには、宗教的熱狂主義者の霊的恍惚状態というものへの批判があったと思われる。

 聖霊が終末的希望を与えるものとして把握されていること、苦しみが被造世界における人間の罪の結果としての死の破滅として捉えられているところに、このテキストのスケールの大きさがある。


 私たちは、このテキストを自分の生活のどの文脈を照らし出し、問うものとし読むのだろうか。

 大きな文脈から言えば、今開催の「地球サミット」にも関連するが、「南北問題」と言われているように、「北(先進国)」がどれだけ「南(途上国)」の苦難を担う意識構造を持つかにある。

 それを我々の現実に引き寄せて考えれば、我々の生活意識が「礼拝」を守り、神に問われつつ変革へと「苦しみ」を負うか、という課題にかかっている。

 少なくとも、今の生活の現状肯定ではなくて、「今この時」を「苦しみ」と共に切り開く信仰者でありたい。

(1992年6月7日 週報掲載 岩井健作)


 ”わたしは思う。今のこの時の苦しみは、やがてわたしたちに現されようとする栄光に比べると、言うに足りない。被造物は、実に、切なる思いで神の子たちの出現を待ち望んでいる。なぜなら、被造物が虚無に服したのは、自分の意志によるのではなく、服従させたかたによるのであり、かつ、被造物自身にも、滅びのなわめから解放されて、神の子たちの栄光の自由に入る望みが残されているからである。実に、被造物全体が、今に至るまで、共にうめき共に産みの苦しみを続けていることを、わたしたちは知っている。それだけではなく、御霊の最初の実を持っているわたしたち自身も、心の内でうめきながら、子たる身分を授けられること、すなわち、からだのあがなわれることを待ち望んでいる。わたしたちは、この望みによって救われているのである。しかし、目に見える望みは望みではない。なぜなら、現に見ている事を、どうして、なお望む人があろうか。もし、わたしたちが見ないことを望むなら、わたしたちは忍耐して、それを待ち望むのである。”(ローマ人への手紙 8:18-25、口語訳)


1992年 説教

1992年 週報

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