個人の信仰・教会の信仰《使徒言行録 18:18-23》(1994 週報・説教のために)

1994.3.6、神戸教会
復活前第4主日・受難節第3主日
午後、故山下長治郎兄一周年記念式「短歌抄

(神戸教会牧師17年目、牧会36年、健作さん60歳)

この日の説教、使徒言行録 18:18-23「個人の信仰・教会の信仰」岩井健作

”パウロはしばらくここで過ごした後、また旅に出て、ガラテヤやフリギアの地方を次々に巡回し、すべての弟子たちを力づけた。”(使徒言行録 18:23、新共同訳)


 新約聖書の中には「旅人・異国人・宿り人・寄留者」という言葉でキリスト者が表現されている所があります。

 これは「天のふるさと」に対して、地上の仮の姿を示すものと解釈されがちですが、これらの言葉は元来、初代教会の信徒の社会層を表しています。


 エルサレムで起こった初代教会は、ユダヤ教団による迫害(41〜42年)を受け、特にシリア地方に逃れ、ヘレニズム世界の都市国家を中心に宣教活動を行います。

 そこに生まれたのは「都市型」の教会です。

 ヘレニズム世界の都市は、ローマ市民権を有する人々が中心になって構成されていましたが、市民権を有しない人は「外国人・寄留者」でありました。

 これらの市民権を有しない人々が国家から認可されていた唯一の集会結社を「コレギア(ギリシア語で ”コイノニア”)といいます。

 日本語で「組合」と訳される「コレギア」には3種類あります。

① 専門職組合、② 葬儀組合、③ 特定の宗教組織

 ギリシアの諸宗教、ユダヤ教の集会、そして「パレスチナで十字架につけられた男を礼拝する組合」もこれらの一つに数えられています。

 パウロは「コイノニア」を信仰による交わりと神学的に意義づけましたが、元来の”生活の座”は、ヘレニズム都市社会で《疎外されている集団》を示していました。

 疎外された者が、イエスに従うことによって、違った意味を持ってきていることの表明を盛り込んだのが「ヘブライ人への手紙」などの表現です。

 ”地上では旅人であり寄留者であることを、自ら言い表した。”(ヘブル人への手紙 11:14、口語訳)


 ”自分が故郷を探し求めていることを明らかに表しているのです。”(ヘブライ人への手紙 11:14、新共同訳)


 ただ、ここではあまりにも精神化・神学化されて用いられています。

「エフェソの信徒への手紙」でも、「もはや異国人でも宿り人でもなく、聖徒たちと同じ国籍の者であり、神の家族なのである」(エペソ 2:19)と「宿り人」を社会的存在として逆説的に肯定するのではなく、「神の家族」という概念に置き換えています。

 ”もはや異国人でも宿り人でもなく、聖徒たちと同じ国籍の者であり、神の家族なのである”(エペソ人への手紙 2:19、口語訳)


 ”あなたがたはもはや、外国人でも寄留者でもなく、聖なる民に属する者、神の家族であり、”(エフェソの信徒への手紙 2:19、新共同訳)


 しかし、私たちが学ばなければならないのは、社会的には片隅の集団が、よそ者を排除する「都市国家」のあり方を問うているところです。

 そして「洗礼」はそのような、イエスに従う者の一員となる表明の儀式だったということです。

 既成の宗教、既成社会、既成の価値観に生きる人との間の葛藤を、むしろ<是>として、その闘いを生き抜こうという表明でした。

 洗礼は、宗教(キリスト教)の内側に入ることを規定するのではなく、イエスに従い、神の霊の力を受けて、人間をダメにしていく力と闘っていく生き方をしようという、外に対する規定だったことに目を留めたいと思います。

(1994年3月6日 神戸教会週報 岩井健作)


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