「岩井健作」の宣教学(6)桑原重夫氏説教論への応答(2000 宣教学)

2000.12.8(神戸教会牧師23年目、牧会43年目、健作さん67歳)

1. 桑原重夫氏説教論への応答

 私への問題提起。説教は本来、神学的な意味での「教会形成」に関わるものなのか。「教会形成」が前提されるのが「説教」か。むしろ神学的「教会形成」的発想に対して、根本的批判、その論理の解体をこそ目指すべきで性格のものではないのか。神学的概念としての「教会形成」が(神学的思想内発想の視点の違いがあって、例えば、岩井が宣教学[1]において、神の出来事を状況文脈的[コンテキスチャル]に見るのか[K・バルト]、状況相関的[コレラティヴ]に見るのか[R・ブルトマン]という違いの論文を取り上げ、そのモティ-フのなかで、論議を展開するにしろ)自明のこととして前提されるところでは、「教会」という神学を前提にした共同性の「止揚」や「総合」を結果としてもたらすが、そこにおける観念そのものを解体していって別なものを生み出すことにはならないのではないか。「説教」はある観念領域で自明の理になっている既成の共同体理論そのものの否定として作用すべきものではないか。人間と社会が見えてきて、現代を揺り動かしていく(現代批判)ことこそが問題なのではないか。いろいろな概念を使ってキリスト教の思想を組み立て直してみても、概念の以前にある[人間]の現実には迫ることができない。聖書を読んで語ることは、言葉の解釈ではなくて、それを生み出した人間の状況(歴史)を問題にして、なぜその様な言葉が生み出されてきたのかに迫り、現在の人間が抱え込んでいる問題に迫ることが「メッセ-ジ」を語る意味ではないか。共同体「形成」ではなくて、既存の共同体を「解体」していく作業に意味があるのではないか。「教会形成」の歴史を批判し、永遠に問いを発することが、「説教」の課題であると思う。論旨の把握が十分でなく、理解も不十分だとは思いますが、私なりに、受け止めたところです。

 そこから、桑原氏の「説教」論は、当然現代批判(社会、国家、民族、階級、教育、宗教、文化などの共同体論理)の射程を視野において成り立つものと受けとりました。そこで予想される共同性は、批判的主体を前提とした共同性であると思われます。あるいは、歴史の実態から言えば、そもそも発想として「共同体論」や「共同性理論」を持ち出した途端に、それは何らかの意味で、足を掬われるので、限り無く「解体」「批判」「不定形」「よい意味でアナ-キ-(無秩序)」にとどまることが、逆説的に「共同性」に関わるということへの強調があるのかなと私なりに想像をします。恐らく「共同性」とか「連帯的人間性」とかいう発想そのものへの批判がなされているので、私が仮に、思想のスタンスを共同性への、距離のとり方の問題と言ってしまうと、それは違う、と言われると思います。しかし、そのあたりは、説教が状況的なもので、語り手と聞き手との関係に大きく規定されるものなのですから、桑原氏の場合は、現代批判が前面でより的確に展開され得る、またその必要のある説教の場を作り出してきたと言い得ると思います。私の場合は、すでに日本の近代化の歴史に色濃く染まり、一つの教派的伝統を持ち、かなり限定された社会階層が集まっている社会集団としての教会が説教の場であることが、現実の説教の方法に現代批判という面での徹底性が欠けている事は認めざるを得ないと思います。

2. 「説教」の場としての「教会」の共同性ということについて

 伝統的神学では、当然、説教は教会(共同体)との関わりで成り立ちます。その共同性とは、説教を語るという行為に対して、聞くという関係が成り立つことに根拠づけられています。ここでは、語るという行為(神の啓示そのもの)が先であり、聞く主体の成立は、その神の言葉を聞くことの「恵み」で成り立っており、さらに人間が語る(勿論、自由に語る)説教は、説教の聞き手が神から聞くべきこととして告げられるという信仰によって成り立っています。啓示の優位性を説く「神学」の場合には、聞く主体の応答性が啓示に根拠づけられて成り立つ、と理解されます。共同性の根拠はどこまでも主体たる神に起因しますから、説教は教会なしでは成り立ちません。この立場での説教の定義は以下のようになります。

「1、[説教とは、神の言葉である、神ご自身によって語られた言葉である。この言葉が自己の使命に忠実な教会において、そのために召された者が、ひとつの聖書のテキストを、自由な言葉で、現代の人間にかかわるものとして解き明かす奉仕をすることを求めるのである]

2、[説教とは、そのために特に召された者によって、神ご自身の言葉に仕えようとする試みである。これは教会に命じられた試みである。この奉仕の意図するところは、一つの聖書のテキストが、現代の人間に対して、まさに彼らに関わりあるものとして自由な言葉で解き明かされること、しかも、彼らが神ご自身からきくべきこととして告げられることである]」(『神の言葉の神学の説教学』K・バルト/E・トゥルナイゼン、加藤常昭訳、教団出版局 1988、 p.46)。

「1」と「2」との関係は、「神の言葉」と「人間の言葉」との関係を現わしていますが、いずれにしろ「教会」が、それを媒介しています。「現代の人間」への関わりが語られていますが、そこにおける歴史や社会に生きている意味での「現実」の人間の共同性は第一義的に問題になってはおらず、神と神の言葉に聞くために召された者との関係が第一義的に問題であり、「教会」が「召された者の集い」として、神学的共同性として前提されています。「説教の概念を、何らかの体験に基づいて、確固たるものにすることは不可能である。これは神学的概念である。信仰において出来事となり、ただ、神の現実を示すことしかできない、神学的概念なのである。」(『神の言葉の神学の説教学』 p.49)。

 ここから考えて、人間の共同性は神学的共同性としての「教会」に収斂されるので、説教に共同性批判があるにしても、第一義的には教会(神の民、キリストの体、聖なる、公同の、一つなる)の概念へ本来的回帰を目指した批判となり、神学の言葉が、思想の言葉に翻訳されて、現代の人間の共同性にまで届く批判とはなり得ないと思われます。このような神学に立つ説教は「現代批判」からはほど遠い距離にあるものと思われます。ここで言われている「現代の人間」は、限り無く、現代の人間の共同性に組み込まれていて、「共同性」自身がしがらみとして人間を部分化してしまい、現実の歴史的社会に対する批判的主体であることを奪って、そこからの自由をなくしていて、その事にすら気付かないほどに、歴史の現実と宗教的「観念」の現実が逆転している事があります。キリスト教の概念の組み替えをして語っても、それが現代批判として届く言葉にはならないことは、桑原氏が説教論において展開している事柄です。聖書がそれ自身宿している、その時代の中で、人間のしがらみとしての歴史的共同性を巡って「個」「本来的自己」「魂」「主体」の確保のためになされている葛藤、戦い、などを歴史文脈的にほぐしつつ、それを現代批判、あるいは批判的主体の糧として読みほぐす作業を伴って、それを語るところに説教の役目を見ることには賛成です。

 例えば、ルカ15:4を、荒井献氏の釈義のように、荒野に放置をされた羊を強調することで、疎外された者を含めての共同性を読み、現代批判に繋げると言った「読み行為」を基に、現代に迫るという語り方です。もし、説教の内容が「福音」「啓示」「真理」として、彼方の真理であることを認めつつ、その伝達を「啓示神学」のように「イエス・キリストの出来事」というように歴史への接点をただ一点に絞ってしまわないならば(バルトは「説教の定式の背後にあるものはキリスト論的な、決定的命題である。説教の困難は、イエス・キリストが誰であり、なんであられるのかを、われわれが言おうとする場合の困難と少しも変わりないのである。」[前掲 p.47]とこの一点に絞る)、宗教的観念と歴史的現実を逆転させないためにも、人間学的に、あるいは「神学」と互換性を持つ思想的言語で語る方法を、説教論の方法とする事を我々は必要とします。

3. 伝達(情報、あるいはコミュニケーション)の問題としてみた説教

 いわゆる旧約聖書が、ヘブル語聖書の表題で、「ト-ラ-(律法)」「ネビ-ム(預言)」「ケスビ-ム(諸書)」という三つの表題をもった書物である事は、伝達の問題からみると、優れた方法論を持っている。現代の社会学者(見田宗介)が、情報を三つにわけて、認識情報、行動情報、美としての情報と論じている事になぞらえるならば、律法は認識情報であり、預言は行動情報であり、諸書は美としての情報に当てはめることができます。説教における「教理」「教義」の叙述による伝達の枠組は、認識情報を媒介にした「真理」の伝達方法といえます。最近、知友・横田勲氏の説教集『傍らに立つ者(Ⅱ)』を手にしました。私など逆さに立っても出てこないテ-マで説教の枠を組んでいます。

「教会のわざ」「教会の組織」「使徒信条講解」など。倫理の命題で語る説教は、行動情報であるに違いありません。預言書は行動への促しを待ち、新約聖書の書簡の後半部分は、倫理を説く意味でその範疇に入れることができます。旧約の詩歌、知恵、格言、文学、また新約の福音書文学は、人間の歴史、文学など経験領域をかい潜ったものの中から、彼方の真理を聞く側で読み取る作業無しでは、伝達の機能を持たないものである。三つの伝達の方法は相互に補完をしている。勿論、説教が説教になるのは、つまり言葉がその相互関係を通して力を持つのは、語り手と聞き手との信頼関係のうちに成り立つものであり、神学的には「聖霊」の働きによる、と言い表される。信頼関係は勿論人間的親しみというに止まらないで、相互に実存を分かち合って生きることの共有を持っている関係であり、基本的には、共同性として客観化できるものではないのです。閉鎖性を破って、開かれた関係へと広がりの可能性を秘めた関係性であります。むしろ、あらゆる共同性から疎外された「魂」の問題と表現しておくべき事柄です。現実の教会の働きの分野では牧会(個々人の実存、魂、孤立にさらされた危機的個人への関わり)の領域です。説教は説教という領域の限界への彼方を予想する時、その輪郭が顕になってきます。

 このテーマを、説教が「聞こえない」「難しい」という聴衆の声を手掛かりに考えましたが、実際的、技術的、現実的課題をクリアしていくことの努力をすればするはど、説教の本質的課題はますます深くなっていくものだと思っています。

 私は、めったに説教をほめられたことはない。がある時、ハガキをある方から戴いた。この間の説教は大変よかったので、思わず「献金」を弾んだと。活字にすると、異なったものになるが、その時の活字を付して終わります。