足下から(2012 礼拝説教)

2012.7.15、 明治学院教会 礼拝説教(279)

(明治学院教会牧師 78歳)

(サイト記)二つのバージョンがあります。併記します。

聖書 ヨハネの手紙一 3章11節―24節 互いに愛し合いなさい、神への信頼

選句「子たちよ、言葉や口先だけではなく、行いをもって誠実に愛し合おう。」(18節)

1.「子たちよ」という呼びかけから考えると、熟年の教会指導者「老ヨハネ」が、「愛」について基本的なこと、ゆえに根源的なことを「親の愚痴」あるいは「親心」にも似た気持ちで語っているように思えてなりません。何故根源的なことなのかは、ヨハネの手紙一3章24節「神がわたしたちのうちにとどまってくださる」とあるように、神関係と人間相互の関係は密接不可分だからです。いやそんなことは分かっているという人が「言葉や口先だけ」の自分への自戒を持っていないからです。そんな賢い知識人(グノーシス思想的キリスト教理解の人)がいるからヨハネはくどくならざるを得ないのです。先々週の説教の繰り返しになりますが、「カインのように(弟殺しをやった)なってはなりません。」(12節)と、あの失敗を繰り返すことのない様に「兄弟愛への誠実さ」を執拗に求めます。

2.愛の根拠を語るために16節「イエスは、わたしたちのために命を捨ててくださいました。」とキリストの贖罪論を語ります(4:9-10参照)。これは多分事柄に筋を通すための、後世の教会の挿入であろうと註解者は指摘しています(ブルトマン)。ヨハネの問題は、愛の程度や、また贖罪論への根拠付けには置かれていません。

 神関係(縦)と人間相互の関係(横)の、二つの関係がいつも自覚され、経験として確かめられているかどうかが問題なのです。二つがバラバラになってはならないのです。「言葉や口先だけ」が批判されているのは、その分離を言うのです。

3.新約学者のE・シュタウファーのヨハネ批判。「兄弟愛」を説くヨハネのイエス理解の不徹底さを彼は指摘します。イエスは「敵を愛し迫害するもののために祈れ」(マタイ 5:43)と言われた事をあげ、

「ヨハネのキリストは敵のためにではなく、友のために死ぬ(3:16)。彼が弟子たちに告げる新しい戒めは敵への愛ではなくて、兄弟への愛である(3:13、23)、……この壁の中の愛……と赦しの心構えは共同体の外部との境界で急に消え失せる」(『イエスの使信 ー 過去と現在』シュタウファー、日本基督教団出版局 1971、256ぺージ)

 私は、かつて新約聖書における「スプランクニゾマイ(憐れむ、腸が痛む)」の用法を調べたことがあります。イエスに関する限り、それは動詞が使われています。しかし、パウロ書簡、ヨハネ文書(3:17)では、「スプランクノン(憐れみ、同情)」という名詞が使われています。名詞は、世の現実(貧困、格差、抑圧、差別)を外から眺めている姿です。主体の「痛み」抜きの徳目になり、上から下への関わりであり、連帯ではないのです。まして「愛」ではありません。「主が命を捨ててくださった」ということは、抽象的なことではなく、徹底して状況を生きたのです。

4.ヨハネだって「富(ビオス)」(17節)の問題に触れています。ビオスは ① 生涯、② 生活・生計、③ 生活必需品・物資・富(マルコ12:44、ルカ15:12、ヨハネ一2:16, 3:17)を含意します。かなり具体的な日常生活の分かち合いです。ヨハネだって愛を「壁の外まで」及ばせたい気持ちはあったでしょう。しかし問題は、愛の射程以前に、自分のことしか考えていない「知識人のわがまま」を足下で戒めているのです。神が「足下に」ということを常に覚えつつ、ヨハネの愚痴を突破してゆきたいと思います。イエスに従う事を心して。

聖書 ヨハネの手紙一 3章11節―24節 互いに愛し合いなさい、神への信頼

選句「子たちよ、言葉や口先だけではなく、行いをもって誠実に愛し合おう。」(18節)

1.「子たちよ」という呼びかけから考えると、熟年の教会指導者「老ヨハネ」が、「愛」について基本的なこと、ゆえに根源的なことを「親の愚痴」にも似た気持ちで語っているように思えてなりません。何故根源的なことなのかは、「神がわたしたちのうちにとどまってくださる」(ヨハネの手紙一3章24節)とあるように、「愛し合う」と言う人間相互の関係は神関係と密接不可分な一体関係だからです。いやそんなことは分かっているという「賢い知識人(グノーシス思想的キリスト教理解の人)」、つまり「言葉や口先だけ」の人が存在するからヨハネはくどくならざるを得ないのです。そんな賢い人に「カインのように(弟殺しをやった)なってはなりません。」(12節)と聖書の故事を引いて「兄弟」と言う身近な足下の存在に神が在まし給うことを説くのです。神はアベルの神でもあるのです。

2.愛の根拠を語るために16節は「イエスは、わたしたちのために命を捨ててくださいました。」とキリストの贖罪論を語ります(4:9-10再度登場)。これは多分後世の教会が筋を明確にするために入れた挿入であろう註解者は指摘しています(ブルトマン)。ヨハネの諭しは、愛の程度や、また贖罪論への気づきにあるのではなく、神関係(縦・信仰)と人間相互の関係(横・倫理)の、二つの関係がいつも自覚され、全体として、あるいは経験として掴めていないことへの注意なのです。二つがバラバラに分離していることを「言葉や口先だけ」と批判しています。平たく言えば「神によって生かされていることの全体」を悟っていないのです。

3.それでも、新約学者のE・シュタウファーはこのヨハネを批判します。「兄弟愛」を説くヨハネはイエスへの理解が不徹底だと指摘します。イエスは「敵を愛し迫害するもののために祈れ」(マタイ 5:43)と言われた。「ヨハネのキリストは敵のためにではなく、友のために死ぬ(3:16)。彼が弟子たちに告げる新しい戒めは敵への愛ではなくて、兄弟への愛である(3:13、23)、……この壁の中の愛……と赦しの心構えは共同体の外部との境界で急に消え失せる」(『イエスの使信 ー 過去と現在』シュタウファー、日本基督教団出版局 1971、256ぺージ)。厳しい批判です。ヨハネだって「兄弟愛」の射程に、兄弟への「同情」(3:17)を説きます。

「世の富(ビオス)」は ① 生涯、 ② 生活・生計、 ③ 生活必需品・物資・富(マルコ12:44、ルカ15:12、ヨハネ一2:16, 3:17)を持っている者に対してです。かなり具体的な日常生活の分かち合いです。でも「同情(スプランクノン、憐れみ」は名詞形です。自分が中心であり、主役である者の味方です。イエスに関する限り、この語は「スプランクニゾマイ(憐れむ)」動詞形で用いられ、「関わり」であり「行動」なのです。世の現実(貧困、格差、抑圧、差別)を客観的に見るのではなく、即「関わり」なのです。実存が連帯なのです。

4.「兄弟」はわたしの脇役ではなく、「脇役」を含めて、そこに「主が命を捨ててくださった」と言う出来事が起こっているのです。イエスは徹底して状況を生きられたということです。ヨハネだってそのことを知っていたでしょう。でも、ヨハネはそこから語らねばならなかったのでしょう。自分のことしか考えない「わがまま」に神は「足下にいまし給う」と精一杯自覚を促しているのです。