花と子供(1996 神戸教會々報)

神戸教會々報 No.145 所収、1996.7.28

(健作さん62歳)

野の花がどのように育つのか、注意してみなさい。  マタイ 6:28


 この世は花園、こどもは花
 めぐみの雨つゆ愛の日かげ
 父なるみ神の日々たまいて
 さかしめたもうよ色香きよく
  (さんびか 466番)


 この歌の作詞者・三輪源造(1871-1946)は、新潟県三島郡与板町の出身。彼は兄弟姉妹共々京都の同志社に学び、京都第二公会で受洗、神学校を卒業後、松山女学校、同志社女専などで国文学を教え、わが国の讃美歌の編集に尽力した。自作に冒頭の歌の他、「羊はねむれり」(119番)、「きかずや明星」(412番)がある。

 与板は良寛の父以南の故郷であり、晩年良寛が親しんだ土地だという。そして三輪は良寛の研究者でもあった。このことは竹中正夫著『良寛とキリスト教』(考古堂 1996)に詳しい。

 良寛は、自然のなかにある生命をいつくしみ嬰児のごとく天真爛漫の人であった。

 三輪が花と子供とを結びつけて詩を詠んでいるのは花と子供を一如とした良寛に心惹かれてのことではあるまいか。子供が時を超え遊ぶ姿と、花のはかなき美しさとが併置されるとき、そこには永遠が暗示され、また「神の国」が示唆される。

 福音書は、イエスの言葉として、子供につき、花につき、別々に伝えているがそこには通底するものがある。

「子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない」(マルコ 10:19)

「野の花がどのように育つのか、注意してみなさい。働きもせず、紡ぎもしない」(マタイ 6:28)

 こどもと花は、神のみそなわし、神の支配のしるしなのである。

 しかし、少し注意して聖書を読むと、花が、永遠や神の支配のしるしなのは、マタイ6:28に限られている。ここでの花はクリノス(百合)が用いられているが、聖書全般ではアンソス(草花)が多く用いられている。新約聖書の用法(ヤコブ1:10、1ペトロ1:24)は旧約のイザヤ40:6-7の流れを汲む。

「肉なる者は皆、草に等しい。永らえられてもすべては野の花のような者だ。草は枯れ、花はしぼむ」

 花ははかなき歴史の象徴なのである。


 先般、さりげなく「読売新聞報道写真・阪神大震災全記録」(1995年3月)のページを繰っていて巻末の「亡くなられた方々」の氏名、年齢、住所(不明者もかなりある)が35ページにわたって掲載されているのに気がついた。「現場の混乱がまだ続いているので完全ではない」とのことわりがついている。

 6才以下のこどもの名を数えてみた。149名の名を拾らうことができた。兵庫県の最近の発表によれば、1995年の県内死亡者数は、震災認定後6279人を含めても、なお例年よりおよそ2000人多い47576人だという。被災者の関連死を示すと解釈される。子供もその中に含まれているに違いないとすれば、死んだこどもの数もかなり多くなるかもしれない。

 子供の墓のはかなさは一層身に沁みるし、「死児の齢を数える」という諺のように、それぞれの子らの成長を想う肉親の哀惜は想像以上に切ないものであろう。


 この子等の死をどう受けとめればよいのであろうか。最近新聞でこんな記事を読んだ。

「阪神大震災の犠牲になった……加藤はるかさん(当時11才)の名前をつけた「はるかちゃんとヒマワリ」を咲かせようと、……住民が三月に種をまき、真夏の開花を楽しみ育てている。はるかさんは……木造の文化アパートの一階で寝ていて、崩れ落ちた天井の下敷となって死亡した」

 ヒマワリは隣家のオウムのえさの種がアパートのあとのさら地に散乱し自然に生えたもの、その種でボランティアグループが被災地一帯に花をと今年は20ヶ所に種まきをしたという。

 母親・満子さん(47)は「天真らんまんで、人なつっこかったはるかに似ている」とはなしているという。

 この話を読みながら、子供の死が、子供を子供のままであり続けさせる永遠性を象徴しているなら、残された大人が、その永遠性を生きることが子供の死へとつながることではあるまいか、とふと思った。

 力や功績や名誉や金力、地位を頼りにしないで、ひたすら愛を信じ、今の世を支配する、いまわしき価値観を転換させることこそ、数多い子供たちの死を記念して生きることではあるまいか。

 それはまた、イエスの説く「神の国」に生きることでもある。


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