祈りと平和《エペソ 6:10-20》(1982 平和聖日・礼拝説教要旨・週報)

1982.8.1、平和聖日、
説教要旨は翌週の週報に掲載
7日(土)出張、
鈴蘭台教会 夏期修養会 講師

(牧会24年、神戸教会牧師5年目、健作さん49歳)


エペソ人への手紙 6:10-20、説教題「祈りと平和」
”語るべき時には大胆に語れるように祈ってほしい”(選句エペソ人への手紙 6:20、口語訳)


 今日の聖書日課は「エペソ人への手紙」の終わりに近い部分である。

 手紙の著者は、形成途上にあるエペソの町の教会を中心とした諸教会の信徒たちに、いろいろ語ってきた。

 信仰の論理、特に教会とは何かについて、そしてキリスト者の生活について。

 そしてここで「最後に言う」と前置きして、これだけは語を強めて言っておきたいとして語ったのが「主にあって……強くなりなさい」ということである。

”最後に言う。主にあって、その偉大な力によって、強くなりなさい。”(エペソ 6:10)

「主にあって」即ち私たちの自分の力、人間的力(例えば、身分・能力・地位・経済等々)によってではなく、「神の力」「神の賜物」によって「強くなれ」と語る。

 自己を誇示し、自分本位を実現させようという生き方に破れ、そんな生き方が「キリストの十字架」と共に死に葬られ、神の恵みの愛のもとに新たにされる自分を見出して生きよ、ということである。


 続けて10〜17節には「主にあって、強くなる」ことなしには生きられない状況が語られる。

 この世におけるキリスト者の戦いは自己自身の実存的在り方(「血肉に対するもの」12節)を超えて、世の構造的悪に対するものを含んだ厳しさを持つことが示される。

”わたしたちの戦いは、血肉に対するものではなく、もろもろの支配と、権威と、やみの夜の主権者、また天上にいる悪の霊に対する戦いである。”(エペソ 6:12)

「神の武具をつけよ」(13節)に続く「真理の帯」「正義の胸当」「平和の福音の靴」の表象が旧約イザヤ書(11:4、59:17)から用いられていることを考えても、世界帝国とそれに従属する国家に現された人間支配への戦いの厳しさが滲んでいる。

 神のみが与える「終わりの日」を信じる終末的信仰に引っ張られて生きなければ、絶望するか妥協するかしかない。

 その双方いずれかに引き裂く力に抗することの信仰の戦いを、手紙の著者は「祈ってほしい」という叫びで表している。

 ”絶えず祈と願いをし、どんな時でも御霊によって祈り、そのために目をさましてうむことがなく、すべての聖徒のために祈りつづけなさい。また、わたしが口を開くときに語るべき言葉を賜り、大胆に福音の奥義を明らかに示しうるように、わたしのためにも祈ってほしい。”(エペソ 6:18-19)


 彼は「鎖につながれている(20節)」即ち獄中でこの叫びを語る。

 ”わたしはこの福音のための使節であり、そして鎖につながれているのであるが、つながれていても、語るべき時には大胆に語れるように祈ってほしい。”(エペソ 6:20)


 身の安全圏で総論的に信仰につき語るのであれば、彼は祈ってほしいとは言わなくても済んだに違いない。

 しかし彼は具体的なことで信仰の真理を語る。

 だから解決の目処のないような問題に直面せざるを得ない。

 こうしたら良いという答えを語れない。

 口ごもらざるを得ない。

 ただ、祈ってほしい、と呼びかける友のあることが、彼の力となっている。

 エペソ人への手紙は教会論を展開していると言われるが、ここにもその一端がうかがえる。


 さて、今日は平和聖日である。

 今日、私たちは「平和」について多くの課題を持っている。

(週報掲載「日本基督教団社会委員会 平和聖日メッセージ」を参照)

 しかし、それらの課題を自分の負っている生活との切り結びを抜きにして論じても「平和」が作り出せる訳ではない。

 むしろ、祈らざるを得ないこと、祈ってほしいと叫ばざるを得ないことの延長線はるかに「平和」を見据え、それに向かって作り出す営みを持つことこそ、大切なことと信じる。

(1982年8月1日 平和聖日 説教要旨 岩井健作)


兵庫教区「平和聖日」集会
日時:8月1日(日)午後3時
会場:神戸教会
テーマ「反核のうねりと反戦平和」
主催:兵庫教区社会部

1982年 説教

1982年 週報

引用:日本基督教団 社会委員会 平和聖日メッセージ

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