「思い起こし」《ヨハネ 14:26》(2001 礼拝説教・週報・ペンテコステ)

2001.6.3、 神戸教会、神戸教会週報、聖霊降臨節第1主日
▶️ 想い起こすということ(2006)

(牧会43年、神戸教会牧師 23年目、健作さん67歳)

ヨハネ福音書 14:25-31、説教題「思い起こし」

”しかし、弁護者、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる。”(ヨハネ福音書 14:26、新共同訳)


母を天に見送って、何だか今までより母が近くにいるような気がします」とぽつりと語られた方がいる。

 高齢の母堂の長い病床の看取りはさぞ大変であったであろうに、との思いと共に、滲む寂しさを覆うほのぼのとした温もりを感じた。

 もはや、その方の”母”は、この地上にはいない。

 だからといって「共にいない」とは言えない。

「共にいる」関係の含みと広がりとは何だろうか。


 一連のヨハネ文書(福音書、手紙)は、このことをよく語っている。

”イエスが神の子であることを公に言い表す人はだれでも、神がその人の内にとどまってくださり、その人も神の内にとどまります。”(ヨハネの手紙第一 4:15、新共同訳)

 これは「告白」と「共にいる」神を語っている。


”わたしたちが互いに愛し合うならば、神はわたしたちの内にとどまってくださり、神の愛がわたしたちの内で全うされているのです。”(ヨハネの手紙第一 4:12、新共同訳)

 これは「倫理の行為」と「共にいる」神を語っている。(ヨハネ福音書 13:34-45参照)


”あなたがたがわたしの名によって、何かを父に願うならば、父はお与えになる。”(ヨハネ福音書 16:23、新共同訳)

 これは「祈り」と「共にいる」神を語っている。


 しかし、ヨハネが、最も特徴ある仕方で神が「共にいる」ことを語るのは、ヨハネ福音書14章から16章であろう。

 ここは、イエスが弟子たちに告げた「決別説教」という形になっている。

 特に15章の後半からは、イエスが受難の死の後いなくなってからのことが告げられる。

”わたしが父のもとからあなたがたに遣わそうとしている弁護者、すなわち、父のもとから出る真理の霊が来るとき、その方がわたしについて証しをなさるはずである。”(ヨハネ福音書 15:26、新共同訳)

”その方、すなわち、真理の霊が来ると、あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる。”(ヨハネ福音書 16:13、新共同訳)

「霊:聖霊」の関わりで「共にいる」神のことを語っている。

 ヨハネが「真理の霊」の働きとして挙げていることは、イエスについての「証し」と「悟らせる」ことである。


 かつて私は、このことについて森有正氏の独特の用語法を借りて、自分なりの理解を深めたことがある。

 森有正氏は、人はあることを体験したままでは、そのことはやがて過去のことになるという。

 しかし、そのことを思い起こして、体験したことを、自分の内で新しい出来事として受け入れる時、その「体験」は「経験」になるという。

 経験は、過去の体験を現在化して、将来に向かって開かれたものとしていく。

 ヨハネ福音書 14章26節の「思い起こさせてくださる」とは、イエスの生を、現在化し、経験化し、大胆に再解釈し、自分の状況を切り開く力を与えられることであろう。


”しかし、弁護者、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる。”(ヨハネ福音書 14:26、新共同訳)

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▶️ 想い起こすということ(2006)

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