2001.5.13、 神戸教会週報、復活節第5主日
(牧会43年、神戸教会牧師 23年目、健作さん67歳)
エレミヤ 4:1-4、説教題「新田を耕せ」
先週は、この教会堂での「神戸聖書展記念礼拝」に始まり、聖書展に明け暮れした。
展示の目玉はなんと言っても「死海写本」だ。
イスラエル政府は外貨が欲しいので、積極的に貸し出しをしているらしい。
開会前の会場で間近に写本断片を見た。
精巧な作品で、写真にはない迫力が伝わってくる。時間を超えて古代の聖典筆写の生活の厳格かつ静謐な雰囲気から、硬い宗教性の漂いを感じた。
他方、新聞の「イスラエル軍は、パレスチナ自治政府の『完全自治区』に侵攻、パレスチナ人20名が負傷、5歳の子供を含め2名が重傷」という報道が心に重く焼きつく。
遠い国の「文化」と「軍隊」とが不協和音を立てて私の中に同居しているような思いである。
ティリッヒはかつて「宗教は文化の根底にあり、文化は宗教の表現である」と書いた。さらに「宗教は軍隊の根底にあり、軍隊は宗教の表現である」と誰かが言っていた。現実はどうも後者の方に近いようだ。
宗教を立国の精神とする国が、なぜ軍隊やテロで争うのか。
ユダヤ教もイスラム教もキリスト教も、なぜ国家と結びつくと「軍隊=力」の前に無力なのか。
民衆の宗教の力は、国家への批判力として、平和への発露として作用しないのか。
エレミヤは「昔からの道に問いかけてみよ」(エレミヤ 6:16、前週説教テキスト)という。
”主はこう言われる。「さまざまな道に立って、眺めよ。昔からの道に問いかけてみよ、どれが、幸いに至る道か、と。その道を歩み、魂に安らぎを得よ。」しかし、彼らは言った。「そこを歩むことをしない」と。”(エレミヤ 6:16、新共同訳)
昔からの道とは、主なる神に従う道、真実、正義、平和、愛、信頼などである。
暴力、軍事力、金権力など直接的力の支配力とは別の道を意味する。
前者を白、後者を黒とすれば、白と黒の峻別の力学を、苦難・逆説を媒介にして生き抜くことが「宗教」の課題であるが、旧約聖書の預言者はその課題をまともに生きた人々である。
預言者は前者の課題を「神に立ち返れ」という表現で訴える。
”「立ち返れ、イスラエルよ」と主は言われる。「わたしのもとに立ち返れ。呪うべきものをわたしの前から捨て去れ。そうすれば、再び迷い出ることはない。」”(エレミヤ 4:1、新共同訳)
エレミヤ4章では、3章19節から続いて、イスラエルの悔い改めが強く訴えられる。
「呪うべきものを捨て去れ」とは具体的に異教的な偶像をいうのであろう。
まず、礼拝のやり方を改めなければならない。
神関係はなんらかの形をとる。純粋に心の中だけの問題ではない。具体的な問題に、それぞれに、人の心の、奥の奥が形をとる。
信仰は歴史的責任を持つものでなければならない。
エレミヤ4章3-4節は、ここでの預言の最終の結論部である。
”まことに、主はユダの人、エルサレムの人に向かって、こう言われる。「あなたたちの耕作地を開拓せよ。茨の中に種を蒔くな。ユダの人、エルサレムに住む人々よ、割礼を受けて主のものとなり、あなたたちの心の包皮を取り去れ。さもなければ、あなたたちの悪行のゆえに、わたしの怒りは火のように発して燃え広がり、消す者はないであろう。」”(エレミヤ 4:3-4、新共同訳)
3節はエレミヤの預言を用いて申命記史家が付加したものらしい。
「新地を開け」(エレミヤ 4:3、「新田を耕せ」口語訳 1955)は諺(ことわざ)である。
若きエレミヤがホセア(ホセア書 10:12、「新田を耕せ」口語訳 1955)から受け継いだものとされる。
古いものに手を加えても駄目だ。古いものが邪魔をしていて育たない。
我々の信仰が、神の裁きによって無とされ、信仰そのものの中に自分の信仰を潰(つぶ)されて、日毎に恵みとして賜る信仰に生きねばならぬであろう。