2001.5.6、 神戸教会週報、復活節第4主日
(牧会43年、神戸教会牧師 23年目、健作さん67歳)
エレミヤ 6:13-21、説教題「日本国憲法の危機と聖書の信仰」
神の意志と時代の退廃との間に、立たしめられたのが、預言者であった。
いま、また聖書の預言書から学ばねばならない時代が来ている。
2001年「憲法記念日」に気持ちを新たにした。
イスラエルの歴史を顧みると、民衆とその指導者たちは、生活の豊穣に足をすくわれ、主(ヤーウェ)なる神をないがしろにした。
その現状をエレミヤ書はこう告げる。
”「身分の低い者から高い者に至るまで、皆、利をむさぼり、預言者から祭司に至るまで皆、欺く。彼らは、わが民の破滅を手軽に治療して、平和がないのに、『平和、平和』と言う。”(エレミヤ書 6:13-14、新共同訳)
主の託宣が告げられる。
”「さまざまな道に立って、眺めよ。昔からの道に問いかけてみよ、どれが、幸いに至る道か、と。その道を歩み、魂に安らぎを得よ。」”(エレミヤ書 6:16、新共同訳)
「昔からの道」とは何か。
それは、イスラエルの民が、エジプトの奴隷の状態から、神の導きにより脱出をし、荒野の40年の試練を経て、内面的にも、民族共同体の在り方としても、「聖書の歴史」として、足跡を残してきた道である。
苦難の道であり、希望と喜びの道であり、人類が「幸いに至る道」(エレミヤ 6:16)であった。
聖書の信仰は、時代時代の歴史の状況で、専制君主に一極支配され、アメと鞭で飼い慣らされる、媚びと隷属の道からの脱却としての「神(メシア)」への立ち返りであった。
いま、アメリカ一極の経済と軍事の力による支配が、世界の隅々にまで及んでいる。
この中で、聖書の信仰を、神の「歴史」への関与という救いの大きな業から、矮小化させて”平和がないのに『平和、平和』と言う”(エレミヤ 6:14)偽りの預言者と祭司の宗教に陥らせてはならない、と強く思う。
以下、松尾信之氏の「週刊金曜日」No.361 (2001年4月27日)の巻頭言。
”時代や現実にあわない。新しい権利の規定がない ー 改憲派はこんな理由を挙げて日本国憲法を葬り去ろうとしている。だが、憲法が時代や現実にあわなくなったのではない。憲法の理念は、時代を先取りしたものであり、現実がそれに追いついていないだけなのだ。憲法の崇高な理念を現実のものとするために努力をしてこなかった自分達の怠慢を棚に上げ、憲法のせいにしてはいけない。今、憲法を変える必要はない。変わるべきは憲法ではなくて、その理念を活用してこなかった我々自身である。”(「週刊金曜日」No.361 (2001年4月27日)巻頭言、松尾信之)
「変わるべきは、我々自身」とは説得力のある言葉である。
「憲法」を対症的に他人の病気みたいに論じる論じ方は、そもそも「聖書の信仰」ではない。
神からの委託を負って自らが生きることが、聖書の信仰であり、「神を信じること」であり、「イエスに従う」ことではないか。