涙する新島の感性を(1985)

「同志社時報」 No.78、1985年10月(学校法人同志社)
「母校と卒業生」欄掲載(p.89-90)

(神戸教会牧師、健作さん52歳)

 新島襄が学生を想い、学生一人一人を大切にする教育者であったことは周知のことである。創立10周年記念式典の演説は殊更にそのことを覚えさせる。そこには彼の外遊中に放逐された7人の学生たちを思う言葉がある。「真ニ彼等ノ為メニ涙ヲ流サザルヲ得ズ。彼等ハ或ハ真道ヲ聞キ、真ノ学問ヲナセシ人々ナレトモ、遂ニ放逐セラルゝ事ヲナシタリ。諸君ヨ、人一人ハ大切ナリ。一人ハ大切ナリ。往事ハ已ニ去レリ。之ヲ如何トモスルコト能ハズ。以后ハ我儕実(せいじつ)ニ謹ム可シ。」(『同志社百年史通史編1』 p.55)。卒業しなかった学生への愛しさがこれ程であるなら、まして卒業生についておや、である。新島の思想の根底にはキリスト教がある。それは神の前での自由、自主、自治の人格の尊厳の思想であり、それを現実的ならしめるキリストの十字架の愛への信仰であり、ピューリタニズムである。その現れが学生への愛であった。そこには学生と教師、あるいは学ぶことと教えることの主客の関係の明確な区別と順序の認識があった。かの「新島校長自責事件」の真意もそこにあった。教えるという教師のわざや努力の限界を越えて教育が成立する根拠を「成長させて下さるのは神である」(新約聖書 コリント第一 3:6)という終末論的信仰に置くからこそ、学ぶ者の心が、教える者のわざに優位せざるを得ないのである。新島が放逐せられた者のために涙を流したという、その感性に驚かざるを得ない。


 私は現在、同志社と関係の深いプロテスタント教会(日本基督教団神戸教会)の牧師の務めを負っている。この教会の創立は同志社より1年早い1874年(明治7年)である。その古い歴史を学んでいて一つのことに気がついた。恐らく日本の近代史に於いては他の分野においても同じ傾向があるのではないかと思われるが、明治20年代までの歩みが実に躍動的であるということだ。伝道の面においては、三田、兵庫、神戸多聞、明石、西宮の諸教会が次々と独立し、中国・四国地方へと活動が伸びている。文明開化の担い手として、出版では「七一雑報」の創刊、教育では神戸ホーム(現神戸女学院の前身)や頌栄幼稚園および保母伝習所、産業では北海道開拓会社赤心社、社会面では神戸孤児院やYMCA等の創設がこの教会に関わる人々の手で行われている。そのめざましい活動は、新しい外来の文化や精神から学ぶことの旺盛さと呼応している。それは「和魂洋才」といった外来の技術の修得ではなく、現状を批判し自己変革をもたらす精神の受容から来る躍動である。ところが、その後の教会の歴史には、初期の発展の「栄光」に比べるならば、それほどのめざましさは感じられない。既に獲得したものを守り継承し、教え伝えていくこと自身の性質にもよるであろう。或いは日本の近代史全体が、「和魂」の固定的継承、それ故の権威主義(天皇制精神構造の拡大強化)体制優位に傾く中で、教会もまた自由ではあり得なかったことの現れであるとも思える。

 このことから思うに、受け継いだものを守り教えることが、自由に学ぶことに先行する時、教育も宗教も躍動的生命力が弱められざるを得ない。


 最近手にした2冊の本から同じようなことを感じた。『これからどうなる 日本・世界・21世紀』(岩波書店編集部編 1983年)には、現在日本の各界第一線で活躍している446名の人たちの見解が示されている。21世紀へ展望と見通しであるが、概して論調は明るくないし、射程が短い。今花形の情報化社会への論述にしたところで、今の均質情報が個人の熟練度に応じた情報化へとすすみ、それは同時に個人環境の支配へとつながると暗い。「笑顔のファシズム」への不安がちらついている。まして教育や社会福祉関係者の論述の中には悲観的でさえあるものがある。オイルショックの後遺症の深さを知らされる思いである。ところがこの本のあと、同じ編集部によって編集された『WOMEN351 女たちは21世紀を』(1984年)という本がある。これは先の本と対照的に明るい。351名の女たちの論述には、みずからの手で未来を作らんとするアクティブな生と痛烈な文明批評とが語られている。巻頭の言葉がよい。“エリート大学からエリート会社へと(進路選択する傾向が)強いようではあるけれども、いったんその中で自己主張をしようとしたらどうなるか。それは強者が世界を爆滅できる武器をもっている社会となる。現代の主題とは、そういう中でどうやって弱者が生きていくかということである”という。そしてこう結ばれている。「女の知恵は、弱者の知慧であり、それはまた、原始社会で自然の圧力と野獣の牙からのがれて生きのびた人間の知恵でもあるのだ。私たちは地球を代表して、人間社会全体として、もういちどそういう知慧に目覚めなければならないところにきていると思う。どうぞ、女から習ってください」(オノ・ヨーコ)。この最後の言葉がふるっている。そこに私はこの本の明るさのもとを見たような気がした。差別や抑圧を経験してきた者の側には、支配や権力への抗議という怒り以上に、弱者が逆説的に全体を包んでいくやさしさと智恵がある。その智恵を学び習うことから見えてくる展望は大きい。習い学ぶことは失敗や錯誤や挫折があるにせよ希望がある。習い学ぶことを優位とする感性のあるところに、また新島の子等も生きている、と信じる。母校の現在に、そのような感性はあるのだろうか。卒業生であることとは「人一人ハ大切ナリ」と涙する新島の感性を宿すことと自戒しつつ歩みたい。

(昭和31年大学神学部卒業・
昭和33年大学院神学研究科専攻・
日本基督教団神戸教会牧師 岩井健作)


BOX-2. 個人所蔵史料(書籍等)

error: Content is protected !!