寒流に棹さして(1985 神戸教會々報20)

ー コリント第二の手紙の講解説教を終る ー

寒流に棹さして

神戸教會々報 No.111 所収、1985.10.6

(健作さん52歳)

 コリント第二の講解説教を始めたのが昨年9月1日、丁度一年です。といっても、木村伝道師、特別に迎えた講師、信徒の方たちの講壇や、教会暦行事の聖書テキストがその間に入っていますから、正確には27回です。地味な講解説教を聞き続けて下さり心から感謝しています。要旨はその都度週報に書きました。もっとも書いたものと語ったものとは別のものでありましょうが、中身の良否は別にして、テープにも全部入っています。その間、いろいろの声も聞きました。会堂の構造か音の残響が強いため、また私の話し方の癖もあり、さらにご高齢の方々の多いせいもあってか、「聞えない」という声を何度もいただきました。8章〜9章では「先生、献金の話が少し続き過ぎますね」と心配して下さる方があったりしました。

 充分伝えられたかどうかは別にして私には迫力のある手紙でした。それは、成立時より多難だったコリント教会との関係で、その苦労が極度に達していたパウロが、これまで自明であったと思われていた福音の真理を、もう一度自分の置かれた状況で弱さや挫折をも通して再吟味していく過程がにじみ出ているからであります。

 そこには、我々が常識として持っている初期キリスト教史の英雄使徒パウロというよりは、苦悩する弱き牧会者パウロが前面に出ています。語る信仰の論理が、共通感覚としては通じないで、ある時は、言葉が裏目に出てしまうような敵対関係にも耐えて、なお言葉に身をかけて、キリストにある交わりの回復を試みていこうとする深い愛を覚えます。

 コリント第二の主旋律は、何といっても「わたしの恵みはあなたに対して十分である。わたしの力は弱いところに完全にあらわれる」(12:9)でありましょう。どのような種類であれ、相手を直接的に支配し動かす力の強さを頼みとする生き方とは、はっきり決別して物事に処していくパウロの日々の心がこの手紙にはあります。今年度、神戸教会の標語として選定された4章10節の「いつもイエスの死をこの身に負うている。それはまた、イエスのいのちが、この身に現れるためである」との言葉にもそのことは示されています。ここのところの「イエスの死を身に負う」を岩波訳では「イエスの死を自分の身に運び廻っている」と訳していますが、このことはパウロの日々の経験であったと思われます。私の心に残っている言葉は「わたしたちは、あなたがたの信仰を支配する者ではなく、あなたがたの喜びのために共に働いている者にすぎない。あなたがたは信仰に堅く立っているからである」(1:24)という、コリントの人々への関わりの姿勢です。この言葉を文字通りに実践していくことはその背後でどんなにか彼自身が「イエスの死を運び廻って」いたかと想像します。

 支配ではなく愛をもって関わるということを絶えず念頭におく生き方が今日どんなに尊いことかを、呼び覚まされます。

 戦後40年、自国中心の繁栄や軍事大国指向の流れが「寒流」であるとすれば、支配の構造はそこにあるだけではなく、「平和や民主主義」を求めてきた側にさえ、それは伏流としてしみ込んで来ています。愛を基本とする暖流と力の支配による寒流とは、あらゆる領域でせめぎ合いぶつかり合っています。自からの内なる寒流に棹さして歩むことへの促しを、このパウロの手紙に感ぜざるを得ません。


イエス見えずなり給う(1986 神戸教會々報21)