「婦人新報」1983年12月号(日本キリスト教婦人矯風会)
「みことばに学ぶ」欄掲載(p.23)
(神戸教会牧師5年、健作さん50歳)
主はその愛する者に、眠っている時にも、なくてはならぬものを与えられるからである。
(詩篇127篇2節)
親が「辛苦のかてを食べ」建てた家が、親亡き後、子どもたちの間で相続の争いの種になるという世間によくある話を聞くと、「主が家を建てられるのでなければ、建てる者の勤労はむなしい」(1節)の言葉が切々と響く。私たちは粒々辛苦(りゅうりゅうしんく)して家を建てる。そこに住まい、家庭を営み、子を育て、老人を看る。だが家庭を血縁という面から見ると難しいことも多い。
最近珍しい本を戴いた。『信仰三十年基督者列伝』(大正8年・警醒社刊)。明治初期に入信した八百余名の信仰の先達の素描が記されている。封建遺制の強いこの時代にキリストによる新しい価値観と倫理観に生きた人々の強烈な個性を感じた。と同時に、その人たちの二世三世の基督者の姿が行間に浮かんできたのである。そのことに不思議な思いがした。キリスト教信仰は神の救いの恵みに対しての応答が基本になる。そこでは人は個とされる。だから親子であっても、血のつながりは頼みとはならない(参照:ピリピ 3:4-7)。むしろ砕かれるべきものである。それでいて、血縁が終末的に止揚されつつ、神のあがないにあずかりつつ、意味をもたされている。一人の信仰者の生涯というものを長い歴史の中で見たり、また信仰の全体的な多様さの中で見るならば、必ず正負両面の評価、そして功罪の双方がある。熱心な信仰者の子どもに信仰が継承されない場合、その負の面だけが目につくのだろうか。だから信仰は一代で終わってそれで当然ということをはっきりさせておくことも大事だ。惰性や習俗として伝わるよりはその方がよい。しかしなお、信仰の二世三世というものが存在する。「主が家を建てられる」とはこのことをいうのだろう。「主はその愛する者に、眠っている時にも、なくてはならぬものを与えられるからである」(2節)という。私たちの意識を超えて信仰の継承は備えられる。だとすれば、一途に励んで、あとはゆだねればよいのではないか。
(神戸教会牧師 岩井健作)

