神のわざへの参与 – 教会幼稚園の働き(1978 説教要旨)

1978年2月19日・26日 岩国教会週報「先週説教より」
マルコ 10:13-16

(岩国教会牧師13年目、退任2ヶ月前、健作さん44歳)

”幼な子らをわたしの所に来るままにしておきなさい”(マルコ 10:14、口語訳)

 朝の光を輝かせて水玉がきらきらとしぶくように子供たちは幼稚園の門を飛び込んできます。教会幼稚園の朝はこんなにして始まります。この子らをどのようにして育ててゆくのか。このたび全国教会幼稚園連絡会で教会幼稚園の基本的理念と方針を明確にするため「キリスト教幼児教育および施設についての基本的見解(ステートメント)」が発表されました。それを骨子として今日は幼稚園の働きについて述べます。細かいところで批判点がない訳ではありませんが、これは大変すぐれた「見解」でこれを学ぶことで幼稚園への理解と祈りを深めていただけるものと信じます。まず幼稚園の働きを「神のみわざ」として捉えています。「神の」とは「私たちの」ではないということです。キリストの十字架と復活を通してなされた神の救いのわざはまさに「神の」側からなされたわざです。幼児教育施設が教会に設立された動機(直接伝道・地域への接触伝道の経済的補助)は様々ですが、神はこれを用いて幼児を招き給う所に中心があります。神のわざの中身は十字架によるあがないの救い(人間性の回復)ですが、これは教育的人間観から見れば、今の日本では憲法と教育基本法の理念を手がかり、媒体として活かし得るものです。ところが、高度経済成長に促された教育のゆがみの中で、この理念は外(国の支配)や内(親・教師)から揺さぶられています。今、国は幼稚園の設置形態を学校法人(今は宗教法人、個人等もある)に統一しようとしていますが、このことに慎重に対処しているのも、神のわざの中身をどうやって確保していくかの問題があるからです。私たちは神のわざに参与しているようで、マルコ福音書の幼な子をたしなめた弟子のようになっている場合もあります。

 教会幼稚園を教会のわざとして、みんなで支えてゆこうという視点から出されたのが、全国教会幼稚園連絡会発表の「ステイトメント(基本的見解)」ですが、その最もすぐれているところは、幼児教育の「公共性」の捉え方です。教育を受ける権利は幼児の場合、両親にゆだねられています(この点が大事!)。幼児教育施設は、両親に委託された義務の一部を両親からゆだねられて教育の責任を負うものです。両親たちと深く連帯しながら、両親が責任を持つ教育のわざを助け、幼児の権利に寄与することが「おおやけの教育」の意味で、その教育機関が公立か私立かの別はありません。国や地方公共団体はこの教育のわざを支える義務があります。まして教育の公共性ないし公教育は、国家による教育支配の体制ではありません。そして、このような「おおやけ性」を持つ「公教育」を支えるためには、教育権を持つひとりびとりが教育の機会と形態とを自由に選択できねばなりません。その選択の一つとしてキリスト教幼児教育施設もまた自らの理念と方法とを示し、親の理解と賛同を基に選択を受けて教育を行うものです。それは国の法によって行われるものですが、国の教育政策に無批判に順応するものではなく、「神のわざ」を成し遂げる点から批判的に関わるものです。そして「神のわざ」の内容につき「ステイトメント」は「平等の理念と差別の克服」という捉え方をしています(この点も少し内容的展開が不足しているという感じを持ちました)。「幼な児らの我に来るをとどむな」とのイエスの言葉には深い招きがあります。差別が克服されるためには、差別され、差別に傷ついている人自らが、イエスの招きに素直に従い十字架にを負うことが成し遂げられていくまでにイエスの招きが深いことを知らされます。教会の幼児教育がイエスの招きに支えられたものであることを祈り求めていきましょう。

(1978年2月12日 岩国教会礼拝説教 岩井健作)


(報告欄より)
 広島キリスト教社会館保育所建設募金についての説明と訴え。蛯江(えびえ)紀雄兄。
  長老会では、この募金の取り組みを決め教会員の有志に訴えることにしました。

 2月19日の説教 分区交換講壇にて、牧野邦久牧師(周陽教会)。
 岩井牧師は岩国東教会講壇担当。

 教区宣教方策協議会 26日・27日 テーマ「牧会と教会形成 – 今日の宣教の展開の中で」

 教区学法化問題委員会 28日(火)、幼稚園理事会 3月2日(木)
 分区教会セミナー 3月1日(水)「証しする教会 – これからの教会」発題:岩井牧師
 世界祈祷日 3日(金)「今、共に生きるとは?」奨励:岩井牧師


BOX-1. 岩国教会所蔵史料

error: Content is protected !!