受難(2004 川和・今日の説教要旨)

2004.3.7、川和教会礼拝説教(要旨)

(川和教会代務牧師、健作さん70歳)

新約聖書  マルコ福音書 14章1−9節

1、ここは受難節の聖書日課の一つです。「イエスを殺す計画」と「ベタニアで香油を注がれる」という二つの小見出がついています。新約聖書には、救いの出来事、あるいは神の喜ばしい音信といわれる「福音」の伝え方に、二つの大きな流れがあります。一つは、パウロの手紙にみられるように、限り無く要約をして短い信仰箇条として伝える伝え方です(ロ−マの信徒への手紙1章2節以下)。もうひとつの伝え方は、出来るだけ要約をしないで、イエスの物語として語り伝える方法です(福音書の物語)。この二つの両方を乗せているところに聖書の妙味があります。

 同志社大学の初期の宣教師だったデイヴィスは亡くなる前に、娘婿から「何か遺言ありや」と聞かれて、「My life is my message 」(わが生涯がわが遺言なり)と答えたという有名な話があります。人生の最後の言葉にその人のすべてを集約してしまわないで、その人の生涯のどの時期にであったとしても、そこに真実な出会いがあるならば、それはある意味で、その人のすべてが込められているという意味です。 

 物語は、伝達の方法としては、聞く者の想像力に訴えます。それに比べて言葉によるまとめは、すなわち信条や教義はむしろ理性に訴えます。ものの考え方の筋道を伝えてくれています。

2、今日の箇所で注目したいのは「香油をイエスの《頭》に注ぎかけた」という句です。旧約聖書ではイスラエルの「王」が任命される時「油を注がれる」儀式が行なわれた。「油を注がれた者」のことを「メシア」といった。これをギリシャ語に訳すと「キリスト」となる。この女の行為は、イエスはキリスト、すなわち「救い主」だという信仰告白を意味しているととれます。「信仰告白」といえばマルコでは、マルコ8章27節以下の「ペトロの信仰告白」が思い出されます。それを意識してそれに対抗して記されているのでは、という見方ができます。ペトロの告白は、受難のメシアではなくて、政治的王としてのメシアでありました。だから、イエスの受難を念頭においていないペトロのそれを補うように、この告白に続いて、受難予告があります。8:32−33を参照。イエスの叱責を受けるペトロが描かれています。ぶざまな弟子というイメ−ジでマルコには現れています。
第一の弟子ペトロの信仰告白よりも、イエスを真実に告白している者として「有名な」ペトロに対して「無名な」「女」を対置させているのは、マルコ福音書の作者の意図のあるところではないか、と思われます。今日は、ほんの説教の書き出しの部分だけ紹介します。

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