複眼に映る歴史《サムエル記上 8:10-22》(1989 説教要旨)

1989年3月5日、復活前第3主日
(当日の神戸教会週報に掲載)

(牧会31年、神戸教会牧師12年、健作さん55歳)

サムエル記上 8:10-22、説教題「複眼に映る歴史」岩井健作

 ”あなたがたは、めいめいその町に帰りなさい”(サムエル記上 8:22、口語訳)


 旧約聖書の中で、「士師記」と「サムエル記上」とを区別している考え方、それは、危機にあたって、その都度神の助けを求めたのが「士師記」で、王制という恒常的制度を樹立しようとしたのが後者だと言えましょう。

 サムエル記を記した申命記史家は、王制に対して否定的評価をしています。

 だからといって、王制が樹立され、サウル・ダビデ・ソロモン、そして王国の分裂と滅亡という歴然たる事実を無視するわけにはいきません。

 サウルが王として立てられたという古い伝承(サムエル記上 9:1-10:16)を採用するに先駆けて、王制に対しては否定的な資料(同上 7:2-8:22)を用いて、歴史を複眼で見る視点を提供します。


 民の「王制」への要求が、老年のサムエル自身の、士師制度に反しての世襲性の導入に起因しているという物語(同上 8:1-5)は、身につまされるものです。

 サムエルは、絶対的権力を持つ王制が、結局は民自身の重荷となることを痛切に説きます(同上 8:10-18)。

 兵役、労役、租税など権力の行使に歯止めがなかったらどういうことになるかを「あなたがたは、その奴隷となるであろう」(同上 8:17、口語訳)とまで言い切っています。

 ”こうして、あなたがたは王の奴隷となる。その日あなたたちは、自分が選んだ王のゆえに、泣き叫ぶ。しかし、主はその日、あなたたちに答えてはくださらない。”(サムエル記上 8:17b-18、新共同訳)

 また、王の故に辛酸をなめて、主に呼ばわっても「主はその日にあなたがたに答えられないであろう」(同上 8:18、口語訳)と言います。

 しかし、22節は「主はサムエルに言われた、『彼らの声に聞き従い、彼らのために王を立てよ』」(同上 8:22、口語訳)と結ばれています。

 不思議な物語です。

 ”主はサムエルに言われた。「彼らの声に従い、彼らに王を立てなさい。」サムエルはイスラエルの人々に言った。「それぞれ、自分の町に帰りなさい。」”(サムエル記上 8:22、新共同訳)


 申命記史家は、もちろん王制に否定的です。

 けれども王制は歴史の現実です。

 史家の視点は《王制が是か否か》ということではありません。

 ヤハウェ(主)にその都度聞き従うということ(士師記の精神・信仰)は、王制樹立にも関わらず、依然として課題だということです。

 《王制が是か否か》という論議は政治的見解(イデオロギー)論争です。

 そういう水準に《神に従うか否か》の問題を重ね合わせてはならないことが示唆されています。

 王制が樹立されても「生存か滅びか」「信仰か不信仰か」の二つの道は残されているということです。

 つまり、現実100パーセント、神に従うこと100パーセント、は常に状況の未来に立ちはだかっています。

 先取りできない、その都度の問題です。

 個々人の決断や個々の教会の決断も、それが絶対的に是か否かではなく、なお、審きと救いを残して将来を与えられているのが、この8章の信仰です。

 不信仰な民は、王制を与えられながら、「めいめいの町」へと散らされます。

(1989年3月5日 説教要旨 岩井健作)


1989年 説教・週報・等々
(神戸教会11〜12年目)

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