青年とアイデンティティー《マルコ 8:34-38》(1989 説教要旨・卒業感謝礼拝)

1989年3月12日、復活前第2主日、卒業感謝礼拝
(当日の神戸教会週報に掲載)

(牧会31年、神戸教会牧師12年、健作さん55歳)

マルコによる福音書 8:34-38、説教題「青年とアイデンティティー」岩井健作

 ”だれでもわたしについてきたいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい”(マルコによる福音書 8:34、口語訳)


 もう20年も前になろうか、米軍岩国基地の兵士たちが、首から薄いペンダントのようなものをぶら下げていたのを思い出す。

 ベトナム戦争の厳しい時だった。

 「それはなんだ」と聞いたら「アイデンティフィケーション・カード」だという。

 戦場で死んだ時、本人であることを識別するためだそうだ。

 同一人物であることを証明することを「アイデンティファイ」という。

 この言葉を、もう少し哲学的・心理学的概念として提唱したのは、アメリカの心理学者エリクソンである。

 1950年代である。

 彼は「アイデンティティー(自己同一性)」という言葉に、二つの意味を含ませている。

 第一は、生まれてこのかた、自分は「一貫した存在」として、今日まで、また将来も生き続けるであろうという確信。

 第二は、自分という存在、自分の生き方が「社会によって是認」されているという確信。

 この楯と横の二つの軸があって、はじめて人は安定感を持って生きていけるのだと彼はいう。

 「アイデンティティー」が問題になるのは、自分の存在の安定感が揺らぐことが、現代は特に多いからだろう。

 また、青年期には、その不安定性が病的な傾きを示して、アイデンティティー神経症の症状になって出ることも多いという。

 無気力、無感動、不安、憂鬱、逸脱、無快楽、生きる意味の喪失などである。

 最近、そんな症状の一つに「卒業恐怖(社会に出ることへの逡巡)」すらあるという。

 「アイデンティティーの確立」は、自分の基礎的条件となる。

 しかし、自分とは何か、何が自分にふさわしいか、それらをはっきりさせつつ前進することは、青年期を問わず、今の時代、大変なことだと思う。


 さて、聖書に示されているように、神との関わりで自分の実在感を確信するということは、最も深い意味での「アイデンティティーの確立」であろう。

 そのことを、この地上での生活で、一歩一歩、築き上げていく招きが、イエスのこの招きにはある。

 「自分を捨て」とは、自己相対化の視座を与えられることだ。

 これは、日々、神(イエス)と人との関わりの中で許されることだ、と思う。

 「自分の十字架を負う」とは、時代とか状況を捨象しないことだろう。

 そのような生き方を「招き」として聞きつつ生きることが、信仰生活、教会生活というものである。

 「われに従え」と語るイエス自身が、十字架の死を負われたことの事実は重い。

 受難週を間近に、心の思いをそこに向けたい。

(1989年3月12日 説教要旨 岩井健作)


1989年 説教・週報・等々
(神戸教会11〜12年目)

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