背後に立つイエス《ヨハネ 20:11-18》(1989 説教要旨・イースター礼拝)

1989年3月26日、復活日、受洗4名、聖餐式
(当日の神戸教会週報に掲載)

(牧会31年、神戸教会牧師12年、健作さん55歳)

ヨハネによる福音書 20:11-18、説教題「背後に立つイエス」岩井健作

 ”しかし、マリヤは墓の外に立って泣いていた”(ヨハネによる福音書 20:11、口語訳)


 昨年(1988年)の夏期集会講師として、私たちの教会に来援いただいた荒井献先生の著作『新約聖書の女性観』(荒井献、岩波書店 1988年10月)の中で、今日の箇所であるヨハネ福音書20章11節〜18節が、2箇所(ヨハネ福音書の女性観、イエスとマグダラのマリヤ)にわたって言及されています。

 そこでは、最近のフェミニスト聖書神学者たちが、ヨハネの強調点が「弟子」としての女性の位置付けにある、と理解することに対して、荒井先生は多少批判的です。

 この箇所で注目すべきは、イエスがマリヤに対して、イエスとの私的・直接的師弟関係での関わりを拒んでいることである、と述べています。

 ”うしろをふり向くと、そこにイエスが立っておられるのを見た。”(ヨハネ 20:14)

 ”わたしは……神であられるかたのみもとへ上って行く。”(ヨハネ 20:17)

 私もこの聖書テキストからは、そのことを教えられ、読み取ってまいりました。

 (参照:「ふりかえるマリヤ」神戸教会 1980年4月6日 イースター礼拝説教、岩井健作)

 10年近く前の説教を読み返してみて、主観的過去像においてしかイエスを探し求められないマリヤを、背後から「マリヤよ」と名を呼びつつ、しかも「さわってはいけない」と、その直接的思慕を拒みつつ「わたしは父のみもとに行く」と述べて、助け主なる聖霊の派遣(16:7)を暗示しつつ、《自由な主体》として生きることへの促しを語りかける復活のイエスを、改めて覚えました。

 同趣旨の説教で、かつて感動を呼び覚まされた杉原助(たすく)牧師の説教「わたしにさわるな」のことも甦ってきました。(『自由の証人 ヨハネ福音書とガラテヤ書による現代聖書講解説教』杉原助、新教出版社 1980)

 また、シュラッターが、羊飼いとしてのイエスに、復活のイエスを重ね合わせ、「復活の主の最初の行為は…慰めもなく…泣いていた一人の女を慰めることであった」と言っていることも思い出しました。(『新約聖書講解 ヨハネによる福音書』シュラッター、蓮見和男訳、新教出版社 1980)


 しかし、このたび、一つの新しい暗示をこの箇所から与えられています。

 それは、ヨハネ福音書の研究者・大貫隆氏が指摘しているように、この記事全体が、一つのドラマとして構成されているということです。

 11節の「しかし」は、前節の二人の男性の弟子が帰宅したことに対しての反語です。

 ”それから、ふたりの弟子たちは自分の家に帰って行った。しかし、マリヤは墓の外に立って泣いていた。そして泣きながら、身をかがめて墓の中をのぞくと、白い衣を着たふたりの御使が、イエスの死体のおかれていた場所に、ひとりは頭の方に、ひとりは足の方に、すわっているのを見た。”(ヨハネによる福音書 20:10-12、口語訳)


 適当な分別で「空虚な墓」という現実に対処できる男性に対して、いつまでも泣く女性の感性が肯定されているのではありません。

 全体がドラマです。

 人生をドラマとして根拠付けるところに、ヨハネはイエスの「復活」を見ています。

 ドラマには、悲しみ喜びの感動と《いのち》があります。

 ドラマが促す《自由な主体》への飛翔こそ、復活のイエスへの出会いです。

 現実をドラマにおいて捉え返していく自由を祈り求めてまいりたいと存じます。

(1989年3月26日 説教要旨 岩井健作)


1989年 説教・週報・等々
(神戸教会11〜12年目)

error: Content is protected !!