1989年4月2日、復活節第2主日
(当日の神戸教会週報に掲載)
(牧会31年、神戸教会牧師12年、健作さん55歳)
サムエル記上 10:17-27、説教題「主の前に出よ」岩井健作
”主の前に出なさい”(サムエル記上 10:19、口語訳)
キシの家で、数頭のロバがいなくなりました。
彼は息子サウルを、僕(しもべ)を一人付けて探しに出させます。
サウルは「若くて麗しく、イスラエルの人々のうちに彼よりも麗しい人はなく、民のだれよりも肩から上、背が高かった」(サムエル記上 9:2)と記されています。
いく日かの捜索にも関わらず、ロバは見つかりません。
ツフの地で、この町には神の人がいるからそこで訊ねよう、とのしもべの促しで、サムエルの所に出かけます。
他方、サムエルは、その前日、主なる神より「ベニヤミンの地から、ひとりの人をつかわすであろう。あなたはその人に油を注いで、わたしの民イスラエルの君としなさい」(9:15)との示しを受けます。
物語は、サウルとサムエルとの出会い、サムエルが新しい使命をこの若者に告げること、サウルの辞退、それにも関わらず、宗教的儀式である宴が設けられ彼は油を注がれた、と続きます。
これがサムエル記上9章1節〜10章16節の物語です。
その内容は、古い資料を用いたものと思われますが、《王制樹立》に手放しで肯定的です。
さて、ここまで読んで、その続きである今日の箇所10章17節〜27節を読むと、戸惑います。
その内容が、8章に続いて《王制樹立に批判的》だからです。
”あなたがたは……あなたがたの神を捨て、その上、『いいえ、われわれの上に王を立てよ』と言う。”(サムエル記上 10:19、口語訳)
しかし、サムエルは、すべての部族を呼び寄せ、くじを引かせることで、ベニヤミン族、その中からマテリの氏族、さらにその中から、キシの子サウルを選びます。
彼は荷物の間に隠れていたサウルを「主に選ばれた人」とし、民は「王万歳」と叫びます。
けれども、著者はサウルを喜んで迎えた人とそうでない人がいたことも、率直に告げる資料を付け加えています(10:25-27)。
《王制》の選択は歴史の中の選択です。
制度、組織などは、信仰や生き方や精神という内面性に対して、いわば器です。
著者は、たとえ《王制》が悪しき選択であったとしても(著者は”悪しき選択”と考える立場)、神はその歴史と共にいまし給う、という信仰を語ります。
「神を捨てた」者に向かって「主の前に出よ」と宣べます。
一見、これは矛盾です。
歴史の中の選択は、それが絶対的に是か否かではありません。
次々と立ちはだかる多様な諸選択の一つひとつのうちで、「主の前に出よ」との招きが改めてあります。
これは歴史を生きる者への恵みです。
そこには、これからだ、という希望があります。
(1989年4月2日 説教要旨 岩井健作)
1989年 説教・週報・等々
(神戸教会11〜12年目)