1989年2月19日、復活前第5主日
(当日の神戸教会週報に掲載)
(牧会31年、神戸教会牧師12年、健作さん55歳)
サムエル記上 7:2-17、説教題「悔い改めと祈りの日」岩井健作
”その時サムエルはイスラエルの全家に告げていった、「もし、あなたがたが一心に主に立ち返るのであれば、ほかの神々とアシタロテを、あなたのうちから捨て去り、心を主に向け、主にのみ仕えなければならない。そうすれば、主はあなたがたをペリシテびとの手から救い出されるであろう」。”(サムエル記上 7:3、口語訳)
サムエル記上7章2〜17節は、典型的な「士師」物語で、サムエルを描いています。
「士師」は、イスラエルのカナン侵入(紀元前1250-1200年頃)後、王国成立までの間、神によって立てられた指導者で「士師記」に記されています。
「士師」は「さばきつかさ」という意味の訳語ですが、ヘブル語の「さばく」という語は、「裁判する」という意味の他に「救う」という意味があり、「士師」はむしろ「救助者」です。
彼らは神に「霊」を与えられ、周囲の国々からの圧迫の危機に際し、軍事的指導をなし、平時には民を治めた者たちです。
「士師」物語は、《苦難〜ヤハウェを呼び求める〜介入〜勝利》という定式を持っています。
7章は、古い伝承を用いた史家が、王政という世俗制度に対立する理想的な「神政政治」を示し、王制に対する批判を含蓄的に示した物語であると思われます。
バアル(農耕神)とアシタロテは、男神と女神。権力と豊作・生殖の神々。
その地方の多産の神々を拒絶することは、申命記改革(史家たちの運動)の基本線でした(列王紀下 23:4-)。断食と水の奉献(サムエル記下 23:16)は、痛悔の表現と言われています。
サムエルは、デボラ(士師記 4:4-)が行ったのと同じ方法で、人々を「裁き」ます。
8〜12節では、サムエルは、出エジプト記 17:8のモーセのように、戦闘での役割を果たします。
雷は、神の「声」だと言われます。気象上の介入の意味がそのように受け取られます。
危機に際してのイスラエルの直接の求めは、強敵ペリシテからの解放でした。
しかし、まず求められたのは、足元の生き方の転換です。
「偶像を捨てよ」と。
このことが現代的意味を、実践的に捉えることが、私たちにとっての課題です。
《偶像=取り込まれた安住のための所有・観念を捨て去る》とは、どんなに難しいでしょうか。
「士師=救助者」とは、偶像の摘出という、神の救助の介助者でした。
「救い」は、抱き込まれた我々の安心立命でないこと、絶えざる転換・悔い改め・祈りへの導き出しであることを、今一度心に刻みたいと存じます。
(1989年2月19日 説教要旨 岩井健作)
1989年 説教・週報・等々
(神戸教会11〜12年目)