神々倒る《サムエル記上 5:1-5》(1989 説教要旨)

1989年2月12日、復活前第6主日
(当日の神戸教会週報に掲載)

(牧会31年、神戸教会牧師12年、健作さん55歳)

サムエル記上 5:1-5、説教題「神々倒る」岩井健作

 ”次の朝また早く起きてみると、ダゴンはまた、主の箱の前に、うつむきに地に倒れていた。”(サムエル記上 5:4、口語訳)


 サムエル記を学んでいます。

 紀元前550年頃、申命記史家が編集した、イスラエルの王国の前半史です。

 サムエル(前1070年頃)からダビデ(前960年頃)までの約1世紀の歴史が様々な資料により構成されています。

 サムエルの誕生と養育(1−2章)、シロの聖所とその退廃(3章)、ペリシテ人との戦いに敗れるイスラエル(4章)等のテーマに続き、今日の箇所(5章-7章1節)は、ペリシテ人に奪われた「神の箱」の物語です。

 その筋を要約すると、奪われた「神の箱」は、ペリシテの街々で病気を流行させ、処置に困ったペリシテの都市国家の長たちは、償いの供え物と共にこれを、べテシメシ(イスラエル側)に送り返します。

 交易関係にある境界の町の人々も「神の箱」の持つ深い意味を悟らず、災いを受け「だれが、この聖なる神、主の前に立つことができようか」(6:20)と語って、キリアテ•ヤリムに送り、「神の箱」はそこに20年とどまった、という物語です。

 「神の箱」に関する物語は、申命記史家が聖所を訪問する巡礼者たちのために書いたと言われます。


 さて、前回「神の箱」がペリシテに奪われたことの意味は、申命記史家がイスラエルのバビロニア捕囚の意味と重ね合わせた歴史解釈だと申しました。

 民族連合の原理として持ち出された「国家宗教(日本では国家神道)」への強力な「否」でありました。

 宗教や神学や信仰を団結のための党派性の拠り所としてはならないということでした。

 だから「神の箱」は敵ペリシテの手に渡っています。

 それは《囚われであって囚われでないという二面性》を持っています。

 《囚われでない》という面が、5章1−4節(5節は古代習俗の原因譚物語)に「ダゴンの転倒」の物語となっています。

 ”ダゴン”はセム語で「穀物」の意味。バアル(農耕神)の父であり、カナン宗教の神です。

 ”ダゴン”は利益神(マモン=富の神)です。

 ペリシテとイスラエルの戦いは《富の神か人格関係の神か》という戦いですが、後者は《囚われの身》(新約聖書ではイエスの十字架の死)を迂回して知られる神です。

 もし「ダゴンの転倒」が、イスラエルの神の聖戦に直接結びつくならば、この物語は、イスラエル民族主義の強化へと取り込まれます。

 が、逆に、自らの批判的あり方を導く比喩となるならば、物語(イデオロギーではないものとして)の真価は発揮されます。

 今年の「2.11」を迎えるにあたり、イデオロギー的対抗ではなくて、自分の物語形成的対抗を促されます。

(1989年2月12日 説教要旨 岩井健作)


2月4日(土)小磯良平兄記念式 司式

2月5日(日)K姉 教会にて記念式司式

2月11日(土)F姉 記念式司式

2月14日(火)M姉逝去、16日(木)教会にて葬儀式司式


1989年 説教・週報・等々
(神戸教会11〜12年目)

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