聖書の読み方への提言(2009 神戸聖書セミナー ⑤)

主題「弱者に対する聖書の視点」

2009.1.16(金)午後、
第37回 神戸聖書セミナー3日目、第5回(最終回)

(明治学院教会牧師、健作さん75歳)

1.聖書はどのように読んでもよい。好きなように読んだらよい。

 古典として読む。文学書として読む。絵画や音楽の表現を媒介として読む。そうして信仰書として読む。「読書百遍意おのずから通ず」と諺にあるが、読む者におのずと応える不思議な書物だ。

 詩人の長田弘(おさだひろし1939-)は「どこでもいい。開いたところから読む。読みはじめると、引き込まれる。そのままおもわず読みすすんでしまう。言葉はシンプルだ。だが、そのペ−ジのどの一行にも、そこから次の行、次のページに誘いこまれる言葉が立ち上がってくる。聖書はふしぎな本だ。信仰を持たないからかもしれないが、最初から最後までずっと一度に読み通すということをしたことは、一度もない。いまでも聖書は、わたしには、いつどこから読んでもいい本、つねに読み終わるということのない、開かれた本のままだ。」『日本の名随筆 別巻100 聖書』作品社 1999、田川建三編 所載「三冊の聖書(長田弘)」より)。いい文章だ。

2.さて、その上で、教会で聖書が読まれる場合のことを取り上げてみたい。

 それは多分、教会を場にして読んできたという、自分の体験に引きずられているかもしれない。

 子供のころから教会の中で育って来たので、中学生の時、教会の友達と「聖書読破会」を作って、グラフにどこまで読んだか記しを付けて読む競争をしたことがある。わけが分かったかどうかは別にして、読み通していったという満足感は残った。しかし、本当には読んだことにはなっていなかったような気がする。今から考えるとあまり身についてはいない。

 次には『信仰問答』や「信条・信仰告白」を通して読んだ(例えば、日本基督教団 信仰告白[三位一体、贖罪、選び、義認、聖化など])。教会では「キリスト教入門」などで、用いられている方法である。聖書のそれぞれの箇所は、ある教義を説明し補完するものとして解釈される。逆に言うと「聖書」が凄く分かったような気がしてきた時期である。その『教団信仰告白』には「旧新約聖書は、神の霊感によりて成り、キリストを証しし、福音の真理を示し、教会のよるべき唯一の正典なり。されば、聖書は聖霊によりて、神につき、救いにつきて、全き知識を我らに与ふる神の言にして、信仰と生活との誤りなき規範なり」とある。これは、ほぼ歴史的「信条」が聖書についてまとめている見解を踏襲している。それは「聖書」が「正典」としてまとめられて来た枠組みを表現している。この線で、聖書全体を読む読み方は「聖書の正典的読み方」と言える。あるいは、聖書を「救いの書」という考え方で読むので「神学的読み方」といってもよい。聖書の救いを「イエスは救い主(メシヤ、キリスト)」として、「イエスが人間の罪の贖い主」ということの証しの書として聖書を捉える時、聖書の読み方の中心は「キリストを証し」するところにおかれる。神学用語で「キリスト論的集中」という概念があるが、私も、このような読み方に熱中したことがある。カール・バルトの神学を神学校で学んだ時期である。

3.ところがその神学校で「聖書学」なるものに出会った。

 聖書の個々の文書はそれぞれ、その成立の文脈、文書の役割、それが生み出された生活の座、資料の性質、文書と成るまでの編集の意図などがあって、それを歴史的批判的方法で捉えないと、文書の意図を十分読みとることはできない、というを研究領域である。

「文献批判」とも「資料批判」ともいわれている。これには「様式史」「編集史」「文学社会学」といった方法が提唱されている。そのことについては本講義の「マルコ福音書」の扱いで触れた。

「神学的、教会的、キリスト論的」読み方が、「信仰」を前提にしているのに対して、聖書学は信仰を前提にしないので、これをストレートに教会に持ち込んではならないという教会の指導者がいるのは事実である。その様な教会も案外多い。聖書学は聖書解釈の補助的手段にすぎないという見解でもある。筆者も教会に「聖書学」を持ち込んでもらっては困ると言われたことがる。その時の「信仰」というのは「信仰告白」に表明された「固定した神学(世界観、観念形態)」の受容になりはしないかとの批判を残すことになる。

 私は、前提として「信仰」といわれていることは何なのか、を問うているのが「聖書の歴史批評学」であると理解していて、聖書学は単なる補助学ではないと思っている。

4.さて、もう一方で、歴史批評的方法の限界を超えようとする方法が、いわれている。それは「文芸批評的方法(歴史的背景から独立したテキストとして読む)」の提唱である。

 歴史批評学のテキストの扱いは、テキストが如何に成り立ち、変化してきたかを研究する。「歴史的出来事」→口頭伝承→初期の文書資料→現在のテキスト、という全体を捉え、その発展過程を大事にする読み方である。

 これに対して、テキストを統一的・一貫性をもつ文学作品として取り扱う。

 歴史批評はそのテキストが持つ「指示機能」を問題にする。つまり、テキストの背後にある出来事の指示する機能である。

 文学批評はテキストの「詩的機能」を問題にする。これは、現代思想の有力な潮流である構造主義の土壌の中から生まれた物語論・物語批評との関連で提唱されている解釈方法である。文学的な読み方であるから、読み手の文化のなかに直接語りかけるテキストの柔軟さが生かされる。冒頭の詩人・長田弘の聖書への接し方には文学的読みがある。

 椎名燐三が「あの復活したイエスが、生きているという事実を信じさせようとして、真剣な顔で焼魚をムシャムシャ食べてみせる姿は、実に滑稽である。だがその私にとっては、そのイエスにイエスの深い愛を感じると同時に、神の国のユーモアを感ぜずにはおられなかったのである」(椎名燐三『私の聖書物語』。所載『日本人のイエス観』笠原芳光、教文館 2007)。

 これは、ヨハネ福音書21章のイエスの復活の記事の理解であるが、文学的解釈といってよいであろう。

 しかし、それを行使する時、聖書の歴史的文脈での固有な出来事の歴史を捨象することになれば、聖書の基本性格(苦難の民の所産という底流)を疎外することになりはしないか、という疑問を私は持つ。

5.聖書の翻訳を各種参照すること。

 今、我々が手にしているのは日本聖書協会「新共同訳」である。身近なところには、協会訳の「口語訳」「文語訳」があり、また福音派では「新改訳」、カトリックには「フランシスコ会訳」がある。最近では「岩波書店版」「田川建三訳」(途中まで)がある。

 ちょっと気が付いたことをエッセイ風に指摘して見たい。

① ガラテヤの信徒への手紙 3章1節にある言葉。「イエス・キリストが十字架につけられた姿ではっきり示されたではないか」(新共同訳)は文語訳では「十字架につけられ給ひしままなるキリスト」となっている。これを比較すると、今もイエスが十字架につけられっぱなしだ、という現在完了形分詞の意味を文語の方がよく表している。

 イエスの時、著者の時、当時の読者の時、そうして現在の読み手の時、この全部の時を貫いて表現しているという意味では、文語訳が断然よい。

 新訳聖書学者・青野太潮氏は自分の説教集の表題に『十字架につけられ給ひしままなるキリスト』(コイノニア社 2004)という、この言葉そのままを付けている。

② コリント人への第一の手紙 7章21節にパウロが「奴隷の立場」を巡って書いているところがある。同じ原文で新共同訳は「むしろ奴隷のままでいなさい」と訳し、口語訳は「むしろ自由になりなさい」と、全く反対の意味に訳している。原文は文脈によってどちらにでも解釈出来る。学者の意見も真っ二つである。そんな時は、読者の生き方から決める以外にない。

③ ガラテヤの信徒への手紙 5章6節にこういう言葉がある。

「愛の実践を伴う信仰こそ大切です。」(新共同訳)。ところが田川建三訳では「愛によって働く信が意味を持つ」。原語の「ピスティス」を「信仰」と訳すか「信」と訳すかの違いであるが、意味が全く違ってくる。

 前者は、信仰者にとって信仰が愛の実践に働き出てこそ信仰が生きたものになる、という意味である。田川訳は、神が人間への信の関係において、イエスの出来事としての愛が意味を持つ、ということで、愛は神の行為を意味していて、人間の愛の意味ではないという。意味が全く逆である。

 出来れば、いろいろな翻訳を読むとよい。

6.「弱者に対する聖書の視点」という点からの提言

 出エジプト記では「わたしは、エジプトにいるわたしの民の苦しみをつぶさに見、追い使う者のゆえに叫ぶ彼らの叫びを聞き、その痛みを知った」(3:7)とあるように、聖書には、苦難にある者たちへの主(ヤハウェ)なる神の関わりの歴史が基本にある。それを読み取るのは、同じく苦難にある者が一番よく読み取れるということが、繰り返し繰り返し言われて来た。

「主が心引かれてあなたたちを選ばれたのは…‥あなたたちは他のどの民より貧弱であった」(申命記 7:7)を引用して、大阪の日雇い労働者の街「釜ケ崎」に18年も住んで聖書を読む本田哲郎神父は、大切なことは、そこの場所(釜ヶ崎)で気がついたことだ、との意味のことを述べている(『釜ヶ崎と福音』岩波書店 2006)。私たち(今日ここで学んでいる者)は恐らく、社会の最下層にはいない。とすれば、極力その最下層の人たちが体験する問題に関わり、想像力を働かせたところから聖書を読むことを心掛ける必要があるのではないか。その様な関わりを、教会として、個人として、グループで持つことが大事だと思っている。

 大阪の釜ヶ崎に関わる働き、「神戸の冬を支える会」の働きなどがある。NGO「地に平和」を通してイスラエル・パレスティナの平和の民生面支援に関わりつつ聖書を読んでいる人達がいる(太田道子『ことばと光』1・2、新教出版社 2006)。

 私は神奈川県に居住するので、横浜では日本基督教団 神奈川教区 寿地区委員会から学んでいる。日雇い労働者、野宿者、外国人労働者の問題は常に最下層からの視点を教える。そこからの視点で聖書を読む営みへの問題提起を受けている。その関連で出会ったのが、ブラジル「解放の神学」の営みである。

7.聖書学習運動の紹介

 私は2004年の夏、機会を与えられ、ブラジル中部の(カトリック)バウサ大司教区の研修センターの聖書学習会に友人の牧師・渡辺英俊氏と参加した。

 そこで出会ったシゲ神父(中ノ瀬重之神父、南山大学出身、真言会所属)は身軽で、気さくで、自由闊達そのものの旧約学者。およそ「学者」という言葉とは無縁な存在。それでいて聖書を民衆の目から「◯の神か、△の神か」の双方が拮抗する歴史として、読み説いてゆく情熱は「解放の神学」が聖書の解釈をも含んだ運動であることの生きた証人だった。

 その趣旨を日本でも生かそうという運動が「ラテンアメリカ・キリスト教ネット(ラ・キ・ネット)」というグループで立ちあげられて活動を展開している。

 世界の貧しさの問題から、日本の教会の神学・聖書理解・社会意識(特に貧富格差の問題)を問いつつ、ラテンアメリカの聖書学習基礎共同体に注目が寄せられている。

 制度としての教会ではなく、運動体・解放の神学の指向に立つ聖職者や信徒がそれを推進しているところに魅力がある。この運動と連帯して日本で「貧しく虐げられた人々」の視点で、現代の聖書学の成果を取り入れつつ学びを深めてゆこうという志が「ラ・キ・ネット」である。運動は「交流・研究・広報」の三本柱で進められている。ブラジルの聖書学習運動で使用されているテキスト等の翻訳なども進められている。機関紙「ぽーぼ(民衆)」が発行されている。

8.結び

 日本の教会は、余りにも聖書を教会の内側で読んできた。

 また多くの読者は人生論的に読んできた。文学的な読み方もかなり一般化している。しかし、新自由主義のグローバリゼーションが広がり、格差社会と、そこでの絶対的貧困が進む中、聖書を人間の個人的救済の面からだけではなく、社会を含めた全人的救いの書としての視点を新たにして読んでゆきたいと思う。これが一つの提案である。

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