エマオのキリスト《ルカ 24:13-32》(1993 週報・イースター・洗礼式)

1993.4.11、神戸教会
復活日(イースター)礼拝

(神戸教会牧師16年、牧会35年、健作さん59歳)

この日の説教、ルカ福音書 24:13-32「エマオのキリスト」岩井健作、礼拝参加181名
洗礼式:K.Iさん受洗
午後、納骨者記念式 説教 ローマ8:31-39「神の愛深く」岩井健作、式参列80名


夕ぐるるエマオの途々弟子たちの
 内に燃えけむゆゑしらなくに

 山下長治郎(前月1993年3月9日死去)


 山下さんのこの復活のイエスを詠んだ歌は、

あゝゴルゴタと繰り返し歌うアルト
 かの日も聞きぬ涙あふれて

(山下長治郎、マタイ受難曲を聴きつつ)

 というイエスの受難と死をうたった歌と共にうたわれている。

 エマオ途上、二人の弟子たちは、見知らぬ旅人が彼らに寄り添い語る言葉を聞く。

 この旅人は、エルサレムで起こったイエスの十字架の悲惨な死については、何も知らないかのごとくである。

 しかし、弟子たちが仲間の数人の女性たちの証言する空虚な墓の物語の意味を解しかねている時、旅人は「キリストは必ず、これらの苦難を受けて、その栄光に入るはずではなかったのか」(ルカ 24:26、口語訳)」と、イエスの死と空虚な墓の意味を解き明かしという。

 夕暮れ、宿に泊まり、一緒に食卓につき、「パンを取り、祝福してさき、彼らに渡しておられるうちに、彼らの目が開けて、それがイエスであることがわかった。すると、み姿が見えなくなった」(ルカ 24:30-31)とある。


 かつて神学者ブルトマンが、「復活とは十字架の有意義性である」と言った言葉に教えられた。

 苦難が意味あらしめられる時、復活は現実的なものとなる。

 もう少し突っ込んで言えば、神の苦難が意味を持っているが故に、その「ゆゑしらなくに」(山下長治郎の歌)というまま、「内に燃え」る生命にあずかっている姿が、「復活」の生命というものであろう。


 1988年4月3日の週報で、ルカ24章13節〜32節の編集史的な構成と、著者ルカの物語の意図について記した。

 そこでは「彼らの目が開けて……わかった。」(ルカ 24:31)の表現の受動態は、「神によって」という側面の強調であることを述べた。

 今回、改めて読んでみて、「パンをさき、彼らに渡して」という、見知らぬ人の行為の意味の大きさに気付かされた。

 パンを裂くことは、イエスの受難を意味する。

「その打たれた傷によりわれわれはいやされたのだ」(イザヤ書 53:5)とあるように、イエスに示された「神の受難」の根源性が、知らない間に我々の心を燃やすところに恵みがある。


 ”パンが裂かれる”とは、現代史の中でどのような出来事なのか。

 改めてそこに目を注ぎたい。

(1993年4月11日 週報 岩井健作)


1993年 説教

1993年 週報

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