本日説教のために マルコ2章13〜17節について(1993 週報)

1993年3月14日 復活前第4主日、神戸教会週報所収、
この日の説教「イエスの招き」岩井健作
(3月9日 山下長治郎兄逝去、3月12日 葬儀)
(3月16日-17日 第28回教団臨時総会出席)

(神戸教会牧師16年、牧会35年、健作さん59歳)

 新共同訳聖書を教会の礼拝の公用に使うところが多くなってきました。

 私たちの教会でも教会学校では新共同訳聖書を用いています。

 礼拝部でも、来年1994年からは礼拝で用いるよう準備をすすめ、提案もしてゆきたいと協議がなされています。

 今の口語訳に比べて意味が分かりやすい、見出しがついて内容把握がしやすい、カトリック教会との共同の集会で使えるなど、新しい面があります。

 しかし、反面で、分かりやすくしたために「意訳」に傾くところがある、見出しが先入観を与えてしまうなど、問題点もあるようです。

 信仰生活の長い方は、文語あるいは口語訳に慣れ親しんできておられるので、新しいものには抵抗があると存じますが、信仰の養いとして、いろいろな訳で(他の外国語も含め)読むこと、さらには言語を学習して読むことなども、一つの楽しみであります。


 さて、マルコ2章13〜17節の見出しは、いかがでしょうか?

 注解書を含めていろいろあります。

 「レビを弟子にする」
 「罪人と義人」
 「罪人の招き」
 「取税人レビの招き・罪人や取税人との食事」

 どこに焦点を当てて読むかで、映り方も違います。

 またマルコを資料とした、マタイ9章9〜13節、ルカ5章27〜32節を比較して読んでみることも大切です。

 マタイは、ホセア6章6節を引用して「罪人」に対する招きを神の「憐(あわれ)み」によるものと理解しましたし、ルカは5章32節で同じ招きを「罪人を悔い改めさせるため」だとしています。

 マルコの記事が持っている「罪人こそ」招かれるのだという逆説性が失われています。


 聖書特有の用語について基礎的なことを学ぶことはどうしても必要です。

 新共同訳の巻末には、133語の用語解説があります。

 この箇所では「罪人」が異邦人(ガラテヤ 2:15参照)や職業的に異邦人と接触する者(取税人)、律法に定められたタブー(禁忌)に違反せざるを得ない人のことだ、とあります。

 「パリサイ派」「律法」「取税人」なども調べてみておいてよい言葉です。


 ここの箇所の構成ですが、13節はイエスが繰り返し群衆を教えたこと、14節はレビの召命の次第、15節は取税人の家での食事(マルコの時代は「家の教会」が活動の単位。イエスの時代の全財産の放棄とは時代が異なる)、16〜17節は論争物語、①場面設定、②抗議、③反論、で前段とは別の伝承。

 さて、ここから何をメッセージとして読み取り、かつ聴くか。

 ここからは各人の「黙想」の時間となります。

 説教はその

(サイト記)接続するテキストが見つかれば更新します。

(1993年3月14日、神戸教会週報 岩井健作)



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