1993年3月7日 復活前第5主日、神戸教会週報所収、
この日の説教「抑えた生活」岩井健作
(神戸教会牧師16年、牧会35年、健作さん59歳)
「毎日5回の祈り、楽しい断食月…‥イスラームがぐっと身近に!」という帯の付いた片倉もとこさんの『イスラームの日常世界』(岩波新書 1991)を読みまして、断食というものが日常的に生き生きとしている人たちのことを知り、少し驚いています。
注)著者である片倉もとこさんは、国立民俗学博物館 教授、社会地理学者。
驚いた、というのは、片倉さんの身の回りのイスラームの人たちの、自由で伸び伸びした宗教生活や文化の波長の伸びやかさです。
西欧技術文明の高度経済成長社会がキリキリしている昨今、それとは違った根を持つ文化のあることに対して、自分達の日常文化をもう少し抑えたところから、心の対話を求めていく必要があるな、との思いを抱かされました。
さて、本日の聖書テキスト、マルコ2章18〜22節について、最近のマルコ福音書注解書は次々と新しい示唆を提供してくれます。
大貫隆さんの『リーフ・バイブル・コメンタリーシリーズ マルコによる福音書注解1』(日本基督教団出版局 1993)もその一つです。
大貫さんは、「ヨハネの断食」の新しさを解説します。
補)ヨハネの断食:ユダヤ教徒が一定の期間に限って行っていた断食を、いわば自分の全生活・全生涯の中に貫徹しようとした。
また「パリサイ派の断食」の新しさも解説します。
補)パリサイ派の断食:ユダヤ教の公式断食を深めて、特に70年のユダヤ戦争後、武闘派とは逆に、民族の罪を贖(あがな)い、内面化を伴った断食。
さらに、婚礼の客を比喩にして、イエスと共にある喜びの時に似つかわしい断食を止揚する「神の国」の今についても述べ、「花婿が奪い去られる日」(2:20)を、イエスの十字架の死として、受難週の断食にその源を置く原始キリスト教の毎週金曜日の断食についても述べます。
しかし、ここのマルコの主張は21節以下の「引き破り」「破れ」「はり裂き」という言葉の内に潜んでいる、とまとめます。
”だれも、真新しい布ぎれを、古い着物に縫いつけはしない。もしそうすれば、新しいつぎは古い着物を引き破り、そして、破れがもっとひどくなる。まただれも、新しいぶどう酒を古い皮袋に入れはしない。もしそうすれば、ぶどう酒は皮袋をはり裂き、そして、ぶどう酒も皮袋もむだになってしまう。”(マルコによる福音書 2:21-22、口語訳)
これは田川建三氏のマルコ注解をさらにもう一歩踏み込んだ理解です。
プロテスタンティズムの禁欲の倫理が、資本主義を産み出し、そのまた鬼子(おにご)が環境や自然の破壊をもたらしている現代、ただ、もう少し欲望を抑えようという「新しい禁欲」だけでは、歯止めが効かないところまで来てしまっているのが現状ではないでしょうか。
そういう意味での禁欲は、イスラームに学ばねばならないかもしれません。
現に私たち日本の日常にはもう少し神との関わりの禁欲があって良いと思います。
しかし、大事なのは、そこからも自由を促す、神の肯定、イエスの招きを聴き取ることだと信じます。
(1993年3月7日、神戸教会週報 岩井健作)