1993年2月21日 降誕節第9主日、神戸教会週報所収、
この日の説教「イエスと12人の弟子たち」岩井健作
(神戸教会牧師16年、牧会35年、健作さん59歳)
”作られた本の半分しか売れない。売れた本の半分しか読まれない。読まれた本の半分は誤解されている。”とは、ある出版人の名言だそうです。
マルコの今日のテキストとの関連でふと思い起こしました。
本との出会いというものは、最後のところ、理解と誤解とを併せ持ちつつ、限りなくお付き合いするものだ、ということが示唆されています。
一回読んで分かったなどとは到底言えないものでありましょう。
さて、マルコ福音書が示している《イエスと弟子たちとの出会い》も暗示深いものがあります。
マルコを初めから読んでくると、イエスを好意的に迎え、彼に従っていく人々の流れは、一方で拡大の輪をたどります。
シモンとその兄弟アンデレ(1:16)
→ゼベダイの子ヤコブとヨハネ(1:19)
→ガリラヤの群衆(1:32, 45、2:13-15)
→ユダヤ、エルサレム、イドマヤ、ヨルダンの向こう、
ツロとシドンあたりからの群衆(3:7-8)
ところが、今日読まれた箇所では、イエスは山にのぼり(山は神への祈りの場、つまり群衆から離れ)、「みこころにかなった者たち」を呼び寄せ、その中から「12人」を選びます。
これは先の方向とは逆に、イエスを囲む人の輪が絞り込まれていく方向です。
さらに「12人」の最後をユダの裏切りでぶっきらぼうに切ってしまう伝承をそのまま用いることで、マルコはイエスを誤解する弟子、あるいはイエスの受難と十字架の死を読者に暗示しています。
注)大貫隆さんは「12人」のリストはユダの裏切りを含めて、マルコ以前の伝承であると指摘。
ここで私たちは、イエスに理解を寄せて集まってくる多くの人の広がりが一方にあり、同時にその理解者たちの中心にある「12人」にも裏切り者がいるように、弟子たちもまたイエスの無理解者であるという方向です。
補)「12人」に属さない「弟子」もいた(マルコ 4:10, 34、10:32)。
招きの中には、不従順も覚悟されており、誤解や不従順、不信仰を含めて、招きや選びがあるというところに、神がイエスを通して人間と出会う《出会い》があることを、この物語は暗示しています。
14〜15節は、マルコ編集上の書き込みですが、ここにも二つの方向があります。
(1993年2月7日、神戸教会週報 岩井健作)