1982年3月14日 神戸教会礼拝
週報掲載 説教要旨
(神戸教会牧師4年、健作さん48歳)
今年1月より、主日礼拝説教を日本基督教団 教会暦聖書日課の福音書テキストにより行っている。イエスの受洗、弟子の召命、カナの婚礼、病人のいやし、教師イエス、パンの奇跡、荒野の試練、神の国の宣言など学んできた。そして今朝のテキストはイエスの宣教活動がはっきりと「十字架の苦難」を表に掲げる、いわば福音書の分岐点ともいうべき箇所である。
イエスは弟子たちに「人々はわたしをだれといっているか」と問う。そしてその一般的評価とは別に「あなたがたはわたしをだれというか」という主体的告白を促す。一般論ではなく、身をかわさないで、自分をあらわにし、逃げることのできない場、真剣であるほかない場に立たされるということは、一面厳しいことではあるが、それをありのままに受け取るならば恵みである。ペテロは「あなたこそキリスト(救い主)です」と告白した。結果的にペテロが思っていた「キリスト」(政治的メシア)とイエスの歩まれる十字架の道とは異なっていた。ペテロはイエスをキリスト(救い主)として告白しつつも、苦しみを避けようとした。しかしイエスは「エルサレムで」こともあろうに神に仕えるはずの宗教指導者たちによって苦しみを受け、殺されることを明らかにした。
エルサレムは神の都といわれた。神が神とされ、神と人との関わりが最も根本的に問われ、あらわにされる場である。神の問題は人間の文化や政治経済や歴史の中ではいつも表に出て問題にされるような事柄ではない。それだからこそ物事の根本問題としてなおざりにされてはならない。そこを欺く「エルサレム」の偽りの姿が、イエスが十字架につけられることで逆説的に明るみに出される。受苦とは、そういった逆説をもっている。私たちも、物事の根本問題、真理性をあらわにしていくために起こる苦しみをできれば避けたいとする力の虜になる。「サタンよ、引きさがれ」(16:23)という強い叱責は、私たちの内面的葛藤に先立ってなされるサタンへの神の挑戦である。「自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい」(16:24)とイエスは招く。物事の負い方、担い方また関わり方の中に、イエスの十字架にあらわされた「神の真実」が私たちの心と思いのうちにうごめくならば、それは自分の十字架を負っている兆しである。「受難とは何か、それはいまだ見ず、聞かざるところの未聞の声、根源の声の到来であり、その根源なる故にこの現実における『受難』に他ならない。『イエスは世の終わりまで苦しみ給うであろう。われわれはその間眠ってはならぬ』」(佐藤泰正)。根源の声を聞くものでありたい。
(1982年3月14日 神戸教会主日礼拝
説教要旨 岩井健作)

