1980年3月16日「兵庫教区報 No.44」掲載、日本キリスト教団兵庫教区
(神戸教会牧師2年目、健作さん46歳)
教会役員の務めについて考える場合、どうしても「教会と社会」という点から見ておかねばならないと思う。特に太平洋戦争中のことを考えると、信仰告白が文言としては正しくなされて来たと思われるにもかかわらず、主流において戦争協力をした。このことの痛みをどう受けとめるかが戦後30余年の教会の課題であった。役員論について言えば、高崎毅氏の論文(1966)は、教会の伝統や教理からだけ意義づけることの限界を指摘し、現代社会の中で、操られない人間の主体の確立を志向し、共同体におけるフィードバック(帰還作用、自己調節作用)の機能を教会役員の働きとみている。論としては優れている。しかし、国家権力に対する帰還作用をどう確立するのかが、戦争責任告白に続く70年問題の最大の問いであった。そのレベルでは同氏の論文は抽象性を顕わにしている。今教団は、その問いを靖国・日韓(在日大韓教会)・部落という視点をも含めて見直し捉えようとしているが大変に重い。新版『教会役員ノート』(第4版 1978)でも役員の責任について「社会の中での新しいしるしの働き」とその方向性は示されている。国家を頂点とする権力構造に侵されながら、なおそれを切り返していく質をもった人間の共同性を指向する、限定された役割への召しが教会役員への召しであると思う。各個教会の現状は破れ多きものではあるが、そこで「弱さを担う共同性」や「あがないの共同性」のしるしを証しすることができるならば、役員または役員会の働きは実りあるものと信じる。
