旅のはじまり《詩篇 121:1-8》(1980 礼拝説教要旨・週報・卒業感謝)

1980.3.9、神戸教会、復活前第四主日・卒業感謝礼拝
説教要旨は3月16日の週報に掲載

(牧会21年、神戸教会牧師2年目、健作さん46歳)

詩篇 121:1-8、説教題「旅のはじまり」

”わたしは山にむかって目をあげる。”(詩篇 121:1、口語訳)


 街の雑踏や人の関わりの複雑さから離れて、山に目をあげる時、我々は広大な気分を味わう。

 その魅力からか、この詩は親しまれている。

 しかし、詩の山々はおそらく日本の風土とは異なるものであろう。

 砂漠の山々の自然は厳しく、昼は太陽の熱が人を撃ち、夜は砂漠の冷気が月の魔力のごとく人を撃ったに違いない。

 そしてそれは、出エジプトやバビロン捕囚という政治的風土の厳しさとも重なり合って体験されたことであろう。


 この詩の解釈は様々である。

 その一つは、捕囚の時代、捕らわれの地から、はるか故国への視界を隔てる山々に目をあげつつ、捕囚の苦しみを通してこそはたらく、神の導きと救いを思い、歴史を導く神への信仰をうたったものとする。

 イザヤ書40章に「もろもろの山と丘は低くせられ」(4節)とうたわれているように、いよいよ捕囚の期は終わり、エルサレムへの旅が、神の守りによって始まらんとする、その出立の信仰が見られる。

 またこの時は、エルサレムへの巡礼の旅の交唱歌と解されてもきた。

 エルサレムの山々が目前に近づき、天と地とを造られた神の救いへの信仰が今ひとたび新たにされ、人生の苦難の旅の節々で、足が揺れ動くことを支えられた主への信仰が思い起こされる。

「我が助けはどこから来るであろうか」(1節)と幾度となく戸惑い問うた過去と「あなたの出ると入るとを(動静の全てを)守られるであろう」(8節)と切り返した信仰の決断との交錯をそこに読み取る解釈である。


”わたしは山にむかって目をあげる。わが助けは、どこから来るであろうか。わが助けは、天と地を造られた主から来る。主はあなたの足の動かされるのをゆるされない。あなたを守る者はまどろむことがない。見よ、イスラエルを守る者はまどろむこともなく、眠ることもない。主はあなたを守る者、主はあなたの右の手をおおう陰(かげ)である。昼は太陽があなたを撃つことなく、夜は月があなたを撃つことはない。主はあなたを守って、すべての災を免れさせ、またあなたの命を守られる。主は今からとこしえに至るまで、あなたの出ると入るとを守られるであろう。”(詩篇 121:1-8、口語訳)


 いずれにせよ、イスラエルの大きな歴史のサイクルでか、個人史の信仰の体験でか、その振幅の大きさ深さの違いはあるにしても、創造者なる神をめぐって、信仰の旅の出発と帰着とを抱え込んだ太さが見られる。

 我々もまた思う。

 イスラエルの民のごとく、たとえ通り抜けるところが荒野であっても、恐れてはならない。

「あなたの出ると入るとを守られるであろう」(8節)との信仰を告白する旅の者でありたい。


 今日は、学校を卒業して人生の一区切りを迎えた兄弟姉妹を覚えて礼拝を守った。

 卒業式のことを”Commencement”(学位授与式)という。

 しかし、この語の意味は「開始・はじまり」であることを考えると、それは新しい旅のはじまりである。

 が、さらにそれが、この詩が心に根付いて意味を持つような「信仰にあっての旅のはじまり」であることを願ってやまない。

(1980年3月9日 神戸教会礼拝説教要旨 岩井健作)



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