起きて歩け(1976)

1976年10月31日 岩国教会週報
「先週説教より」マタイ9:1-17

(岩国教会牧師12年、健作さん43歳)

あなたの罪はゆるされた、と言うのと、起きて歩け、と言うのと、どちらがたやすいか。(マタイ9:5)

 中風の者(9:2)。彼は人生の途上、強いられた病に倒れているが、今、人々の信仰に支えられて、イエスのもとに来ている。「子よ、安心しなさい」(シュラッター訳)とイエスは声をかけられた。備えられた生がそこに見える。また「罪のゆるし」の許にある生を憶える。

 先週、中谷康子さんを岩国にお招きした。夫の交通事故死、自衛官の妻として経験した補償交渉、家からの独立、亡夫の護国神社合祀拒否訴訟、子供の成長のこと等々、同姉がかいくぐってきた様々のことと信仰とはどう関わり合っているのかという問いに、信仰的な云い方になってしまうけれども、と断りつつ、「お膳立てが出来ていた様な気がする。いい意味でがんじがらめだった」と中谷さんは答えていた。さらに、人々に支えられた訴訟にある身を省みつつ、「自分の生活は我慢するといったことはしないで、伸び伸びとして生きてゆきたい」とも云っておられた。私は、備えられた主、起きて歩く自由な生といったものを憶えた。

 中風の者を生き方の問題として考えると、自分の思いのままに生きられない姿を表しているが、この者にこそ備えられた生の自覚と、「立ちて歩く」自由とが与えられている。さらに注目したいのは、立ちて歩く内なる生の真実は、他の面から強烈な社会批判(律法学者への批判としての「罪が許された」という言葉の持つ意味)となっていることだ。それが逆ではないところを大切にしたいと思う。

(1976年10月24日 説教 岩井健作)


BOX-1. 岩国教会所蔵史料

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