1976年1月25日 岩国教会週報
「先週説教より」ルカ15:25-37
(岩国教会牧師11年度、健作さん42歳)
あなたも行って…(ルカ10:37)
有名な良いサマリア人の譬えをめぐる物語のどこに自分の身を据えて読むかで受け取り方も変わってきます。
第一、律法学者に自分を重ね合わせて読むと、自己弁護をして隣人のありのままを見ようとしない自分の姿が審かれているように感じます。自分の誠実・不誠実を見つめる目を失ってはならないと反省させられます。
第二、強盗・襲われた人・祭司・レビ人という登場人物に自分を重ね合わせると、自分を含めて社会の罪が重く感じられます(例えば、在日朝鮮人政治囚の中に"倒れた旅人"を、そして"祭司が傍らを通り過ぎる姿"に日本人を重ね合わせるなら、個人から社会の罪へと射程は広がります)。私たちが誰かの隣人になるなどという話に留まらず、罪に打ちひしがれている姿、それゆえに倒れているのは私たちの有り様だと考えざるを得なくなります。
第三、だからサマリア人を見る見方は、彼が私たちの理想や模範であるというのではなく、そこにイエス自身の姿を憶えざるを得ません。ヒューマニズム(人間理想主義)の破れた彼方で、絶えず「ところが」(ルカ10:33)と切り込んでくる希望と約束の根拠がここに示されている、というのは信仰の筋道から、この物語の理解として当を得ているでしょう。
第四、けれども私たちはイエス自身の言葉「あなたも行って…」(ルカ10:37)に立ち返りたいと思います。自分の倒れている姿から(内面を掘り下げつつ)信仰の根拠を見る訓練は信仰者として絶えず深められねばなりません。けれども、ある状況(サマリア人が直面した)では、倒れている人の立場でその人に即して見、考え、行動する実際的働きが必要です。私たちだって日常での急な病人にはそのように接します。私たちの歴史に起こっている苦悩に対して、自分の内向きな目から中々出られないことがありますが、そこでこそ「行きて」という召しを聴きたいと思います。内なる憂いの中に人への召し(優しさ)のあることを見出して進みましょう。
(1976年1月18日 岩国教会 岩井健作)


