信仰・体験・教育《ヨナ 4:1-11》(1992 週報・本日説教のために)

1992.8.16、神戸教会
聖霊降臨節第11主日

(神戸教会牧師15年目、牧会34年、健作さん59歳)

岩井健作牧師の夏期休暇:8月18日(火)〜31日(月)。この間、大分から熊本・長崎へと、竹田・天草・崎津などのキリシタン遺跡を訪問し、9月6日の週報に「天草での想い」、10月発行の教会報上に「崎津の教会」を執筆している。

8月23日(日)説教
聖書:詩篇103篇1〜22節
「神の関心事」飯謙(神戸女学院大学文学部助教授)

8月30日(日)説教
聖書:使徒行伝17章16〜34節
「偶像か復活か」橘秀紀(神戸教会伝道師)


第2回 兵庫教区「統一協会」問題追及 講演会

講師:卓明煥(タクミョンハン)韓国宗教問題研究所所長
日時:8月25日(火)午後3時より
場所:神戸クリスチャンセンター
主催:日本基督教団 兵庫教区社会部


 ”わたしはあなたが恵み深い神、あわれみあり、怒ることおそく、いつくしみ豊かで、災を思いかえされることを、知っていたからです。”(ヨナ書 4:2、口語訳)

 この言葉は、出エジプト記34章6節に関連していて、旧約ではかなり高度な神観である。

”「主、主、あわれみあり、恵みあり、怒ることおそく、いつくしみと、まことの豊かなる神、いつくしみを千代までも施し、悪と、とがと、罪とをゆるす者、しかし、罰すべき者をば決してゆるさず、父の罪を子に報い、子の子に報いて、三、四代におよぼす者」。”(出エジプト 34:6-7、口語訳)

 しかし、現実は偏狭な民族主義の選民意識から自由ではなかった。

 その矛盾と不条理をどう越えるのか。

 これは、ヨナ書の著者の訴えであった。

 ヨナは、モーセ(民数記 11:15)、エリヤ(列王紀上 19:4)、エレミヤ(20:18)のように、歴史の現実と神の言葉の間に立って、預言者の任務が重く、背負いきれないという実存の極みから言葉を語っているとは思えない。

 ヨナは確かに3節、8節で「生きるより死ぬほうがましだ」と二度も語る。

 ”それで主よ、どうぞ今わたしの命をとってください。わたしにとっては、生きるよりも死ぬ方がましだからです」。”(ヨナ 4:3、口語訳)

 ”「生きるよりも死ぬ方がわたしにはましだ」。”(ヨナ 4:8、口語訳)

 しかしそれは、実存のうめきというよりは、我がままな子供の文句に似ている。

 歴史の状況と孤独を味わいつつ、人の心に繋がりを促しつつ歩む自立と自由へのはるか以前の人物像が描かれている。


 苦難を経て、幾多の預言文学を生み出したイスラエルの民族的深みを洞察することの出来たであろう著者が、紀元前4世紀半ばの状況で、端的に信仰教育的文学を書くことで訴えた、その心情をこそ、この短編に読み取ることが、今日的なヨナ書4章の読み方ではないだろうか。

 4章は極めて教育的な文書である。

 「町のなりゆきを見きわめようと、その下の日陰にすわっていた」(ヨナ 4:6)ヨナと同じように、今日、歴史のなりゆきを、それ相応の生活の温かみから「見きわめようと」(4:5)する私たちを、神は、信仰的実存への育てるために如何に苦労をされているのであろうか。

 「非常に喜んだ」(ヨナ 4:6)り「怒」(4:9)ったりするヨナを、神は穏やかにたしなめ、身近な体験を備えられたりする。

 ヨナにとって「狂い死にそうです」(ヨナ 4:9)という体験も、神の目には、神の心を知る教育への道筋であるところは、ヨナ書の著者の励ましを秘めた訴えであろう。

 神はヨナの「惜しむ」心のうちに繋がり給う。

 神はヨナの肌みに応える体験の内側に入り込みながら、育て給う。

 労すること、育てること無き者にさえある「惜しむ」心を手がかりとする神の忍耐がそこには示されている。


 「生きるより死ぬ方がましだ」とつぶやく時、そこから神が歴史に関わり給うた、あのイエスの死と生を通して示された「恵み」への招きが始まるのではないだろうか。

(1992年8月16日 週報掲載 岩井健作)


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