崎津の教会(1992 神戸教會々報 ㊽)

神戸教會々報 No.136 所収、1992.10.18
同日開催 神戸教会 秋期伝道集会
引用:宮田光雄氏「イエスと出会う」ザアカイ物語《ルカ 19:1-10》
天草での想い(1992 週報)

(神戸教会牧師 健作さん59歳)

これらの人はみな、信仰をいだいて死んだ。”(ヘブル人への手紙 11:13、口語訳)


 今夏はいつになく台風が九州地方を襲った。その余波の中、大分から熊本を旅する機会を与えられ、竹田、天草などキリシタン遺跡をたずねた。雲が低く垂れ込め、時には風雨が視界をさえぎってはいたが天草の自然は美しかった。


 かつて哲学者・飯島宗亨(むねたか)氏が逗留し著作を綴ったという富岡の三文字屋旅館を後にして、天草下島西海岸をたどった。途中下田には旧道が文学遊歩道として保存されている。

 1907(明治40)年8月、与謝野鉄幹、北原白秋、木下杢太郎、吉井勇、平野万里の五人がキリシタン以来の南蛮文化をたずねて道なき道を歩いたところ。

 前もってY兄に貸していただいた『五足の靴と熊本・天草』(濱名志松著、図書刊行会 1983)から与えられた情景が重なり合い、感慨を深めた。

 この地方には1566(永禄9)年、長崎や島原を経由してキリスト教が伝えられた。

 ルイス・デ・アルメダイ(1525-1583)は、志岐、河内浦、崎津に布教した。彼は西洋医学の祖として日本医学史に名をとどめている。キリシタン大名・大友宗麟の援助で、布教はもとより、病院・育児院・らい施療所・医学教育にたずさわったポルトガルのイエズス会の宣教師である。その当時、河内浦のコレジョ(大学)では、セネカやアウグスチヌスやトマス•アクィナス、そしてイソップ物語が読まれ、金属活字印刷所が設けられていたという。

 1600(慶長5)年、当時天草を所領していたキリシタン大名・小西行長が関ヶ原に敗死するまで天草はキリシタン全盛の時代であった。しかし1614(慶長18)年、徳川家康が下したキリシタン禁教令は、その後の250年余を信仰と思想の統制と弾圧を強いた。

 1637(寛永14)年の「島原・天草の乱」ーそれは悪政に対する生活権闘争であったーに至るまでの30年間、島民は言語に絶する収奪と弾圧に呻吟した。そこには、幕藩体制と、人間の尊厳を中心とするキリスト教信仰に触発された人権意識を支える人間の裸の実存との真向からの衝突があった。数々の殉教は歴史の闇を告発している。この問題は過去の歴史の問題だけではなく、「権力に抗する」こと薄い現在の私たち日本人のあり方への問いでもある(宮田光雄著『いま日本人であること』P.77以下参照)。


 もう夏も終わりに近いのか、大江の天主堂を訪れる人もまばらだった。

 博物館には、キリシタン遺物、メダル、マリヤ観音像、小聖母像、ツボとロザリヨの珠、聖祭具に附属した十字架、また幕府側の宗門改帳、真鍮踏絵、板踏絵、キリシタン禁制の高札等々が展示されていた。

 明治後この地に再開された伝道を受け継ぎ50年余ここにとどまったガルニエ神父の墓が会堂の横を降りた山の中腹にあった。ロマネスクの白いシンプルな会堂はこの神父の私財の遺産と信者たちの寄附で1933(昭和8)年に建てられた。後方の山道を登り、小雨のぱらつく中、スケッチブックに一枚と会堂をエンピツで追ったが、様にならないので崎津に向かった。


 天草灘に切り注ぐ断崖の海岸線を登ったり降り続く道路をしばらくゆくと、羊角湾の奥、天然の良港・崎津が見えてくる。

 港の家並みに囲まれてゴシック式の尖塔が「崎津教会」である。



 アルメダイの活動以来2世紀半7代にわたり隠れキリシタンが続いたという。

 今の会堂は弾圧の場所・庄屋屋敷跡に建てられ、祭壇は絵踏の場所だったという。

 シスターたちが営むという幼稚園々舎は、わが「いずみ幼稚園」園舎より古びていた。

 村人の信仰のたたずまいが、この山合いの港には充ちていた。

 その風景は、素人のスケッチブックにも何となく収まってくれた。



(関連)評伝・あとがき(『山下長治郎歌集』)



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