思いかえす神《ヨナ 3:1-10》(1992 週報・本日説教のために)

1992.8.9、神戸教会
聖霊降臨節第10主日

(神戸教会牧師15年目、牧会34年、健作さん59歳)

 ヨナ書のことは新約聖書の福音書に引用されている。

 マタイ福音書 12:38-42、ルカ福音書 11:29-32、関連でマルコ福音書 8:11-12。

 ”「邪悪で不義な時代は、しるしを求める。しかし、預言者ヨナのしるしのほかには、なんのしるしも与えられないであろう。すなわち、ヨナが三日三晩、大魚の腹の中にいたように、人の子は三日三晩、地の中にいるであろう。ニネベの人々が、今の時代の人々と共にさばきの場に立って、彼らを罪に定めるであろう。なぜなら、ニネベの人々はヨナの宣教によって悔い改めたからである。”(マタイによる福音書 12:39-41、口語訳)

 新共同訳聖書は、マタイ・マルコ・ルカ全ての上記箇所で「人々はしるしを欲しがる」という見出しをつけている。

 イエスの時代、ファリサイ派の人々は、イエスと直接的・主体的な出会いを避け、安全な保証を媒介にして、イエスに関心を寄せた。

 しかし、「しるし」を保証とする出会い方に、イエスはきっぱりと拒否の態度をとった(マルコ福音書 8:12)。

 ”パリサイ人たちが出てきて、イエスを試みようとして議論をしかけ、天からのしるしを求めた。イエスは、心の中で深く嘆息して言われた、「なぜ、今の時代はしるしを求めるのだろう。よく言い聞かせておくが、しるしは今の時代には決して与えられない」。”(マルコによる福音書 8:11-12、口語訳)

 元来は、ヨナに関連づけられた話ではなかったであろう。


 初代教会のあるグループ(Q教団)の人たちは、次のように考えた。

 彼らの宣教努力にも関わらず、イスラエルは悔い改めなかった。

 そこで彼らはヨナ書を思い出し、ヨナの宣教を聴いて悔い改めたニネベの人々(異教徒)と比較して、イスラエルは異教徒にも劣ると。

 「今の時代」(初代教会時代)の人々(イスラエル)は、ヨナから学ばなければ、終末の日にはニネベの人々が共にイスラエルを審くであろう、と。

 マタイ・ルカの用いた共通資料Qは、そのような解釈からヨナ書を引用した。

 さらにマタイは「三日三晩、大魚の腹の中にいたように、人の子も三日三晩、地の中にいるであろう」(マタイ12:40)をイエスの「死と復活」の予告として解釈した。

 ”すなわち、ヨナが三日三晩、大魚の腹の中にいたように、人の子は三日三晩、地の中にいるであろう。ニネベの人々が、今の時代の人々と共にさばきの場に立って、彼らを罪に定めるであろう。なぜなら、ニネベの人々はヨナの宣教によって悔い改めたからである。”(マタイによる福音書 12:40-41、口語訳)

 旧約をよく理解すれば、イエスの死と復活に示された存在のみは分かるはずだ、とファリサイ派を批判する。

 聖書の中の一つの物語がどう受け取られていくかを、このヨナ物語の福音書引用は示している。

 元来の文学としてのヨナ書そのものは、ユダヤ人の選民意識の狭さをユーモラスに批判した、興味深い作品であることは既に述べた。(主の言葉が臨む《ヨナ 1:1-10》


 さて、ヨナ書3章3節には「そこでヨナは主の言葉に従い」とある。

 ”そこでヨナは主の言葉に従い、立って、ニネベに行った。ニネベは非常に大きな町であって、これを行きめぐるには、三日を要するほどであった。”(ヨナ書 3:3、口語訳)

 この箇所をヨナの「神の言葉への服従」とは見ない注解がある(『ヨナ書注解』西村俊郎、日本基督教団出版局 1975)。ヨナの機械的譲歩だという。彼は自らすすんで宣教のわざに従事したのではない、と。

 「ニネベの王」の悔い改めと、大臣の布告による「人も獣も牛も羊もみな」悔い改めて悪の道を離れたというのも、いかにも直裁な話であって、文学的ではあっても歴史的ではない。

 そして突如、神は「思いかえして(審きを)おやめになった」とある。

 ”神は彼らのなすところ、その悪い道を離れたのを見られ、彼らの上に下そうと言われた災を思いかえして、これをおやめになった。”(ヨナ書 3:10、口語訳)

 ヨナは何のための存在であったのか。

 ヨナ書3章は、「宣教」に関わる者の存在の意味を、我々に深く示唆してはいないだろうか。

 「宣教」は、イスラエルの選民(救い)性を意義づけることではなく、悔い改め(民族の自己相対化と共存性)へと向かう在り方のしるしとして、己が存在が用いられることである。

 「思いかえす神」(悔い改めの関係を活かす神)へと心を開くことである。

(1992年8月9日 週報掲載 岩井健作)


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