引用:飯謙氏「神の関心事」《詩篇 103:1-22》(1992 週報・説教要旨)

1992.8.23、神戸教会 週報
聖霊降臨節第12主日・健作さん夏季休暇(キリシタン遺跡の旅)
前週:信仰・体験・教育《ヨナ 4:1-11》
休暇後:天草での想い

この日の説教は、詩篇 103:1-22、「神の関心事」飯謙

 飯謙:1955(昭和30)年3月28日生(1992年当時は37歳)。岡山県出身。同志社大学大学院卒。元・神戸教会伝道師。(1992年)現在、神戸女学院大学文学部助教授。訳書・現代聖書注解 J.G.ジャンセン『ヨブ記』(日本基督教団出版局 1989)他、著書多数。1995年- 文学部教授、2009-2015年 学長、2022年現在、神戸女学院 理事長・院長。


(サイト記)引用に際して、サイト用に「改行」は追加しました。語彙は原稿のままです。


「神の関心事」詩篇 103:1-22 飯謙教師

 詩篇103篇は、「わがたましい」「わがうちなるすべてのもの」と自身に向けた導入の呼びかけに始まります。

 1〜2節では同じ言葉が(聖書に時折あるように)単調に反復されているように思えますが、その目的語部分をよく見ると、前行に共通する「主を」は、後行でそれぞれ「聖なるみ名を」「すべてのめぐみを」と深められています。

 2節bの「めぐみ」は、8節のそれと違い、10節の「報いる」と同じ語で、神の業に関わります。

 「報い」という訳語には苦痛のイメージを感じますが、ここではそれも含めて、出会った「すべて」を神の「めぐみ」として讃え、心にとめよ、と勧めているのです。


 続く段落(3〜5節)では詩人の個人的な「めぐみ」の体験が示されます。

 単純に考えて、3〜4節に触れられた病の癒しや生命を墓から呼び戻すといったことは、日常的に何度も起こることではないでしょう。

 そこで興味深いのは、5節c「わしのように新たになる」という第二イザヤ(40-55章)にも見られる表現です。

 「鷲(わし)」はその大きな翼のゆえに躍動的な生命の象徴と解されてきました。

 しかし鷲は、いうなれば「働きもせず、紡ぎもしない」、与えられたそのままの姿を生きています。

 この言葉は、神の不思議な「めぐみ」が、私たちの日常から切り離されたところにではなく、その連続上にあること、さらにその日常に神の尺度が入り込んでいることを語っているのです。


 そのメッセージを、詩人は続く段落でエジプト脱出の出来事を引いて語ります(6節の「しえたげ」はエジプトにおける苦悩を暗示)。

 古代イスラエルの人々にとって、出エジプトは神による解放の記憶であると同時に神に対する背反の記憶でもあります。

 カナン途上において、イスラエルは幾度も神からの逃走を試み、罪を重ねました。

 しかしその中で彼らは、神が私たち人間のもつ平板な尺度で人を裁かれないことを学びました(10節)。

 なぜか ー 詩人は語る ー 「主こそが、われらの本性、われらが塵にすぎないことを、覚えておられるからだ」(14節)。

 神が人の弱さに関心をもたれるということは、聖書の思想の根底にある信仰です。

 それは、愛を注がれることを必要とするという、私たちの本性を教えます。


 私たちの日常はしばしばこの本性に生きる壁となり、私たちもそれを格好良く乗り越えるほど強くないかもしれません。

 しかし聖書の証する神は、人間のはかなさを踏みにじらず、逆に「すべての物」を(19節、22節)ありのままの姿で評価し、お用いになる方です。

 そのゆえに私たちが神の呼びかけに応答できる者でありえる ー そう詩人は語ります。

(1992年8月23日 週報掲載 飯謙)


詩篇 第103篇

わがたましいよ、主をほめよ。
わがうちなるすべてのものよ、
その聖なるみ名をほめよ。
わがたましいよ、主をほめよ、
そのすべてのめぐみを心にとめよ。
主はあなたのすべての不義をゆるし、
あなたのすべての病をいやし、
あなたのいのちを墓からあがないいだし、
いつくしみと、あわれみとをあなたにこうむらせ、
あなたの生きながらえるかぎり、
良き物をもってあなたを飽き足らせられる。
こうしてあなたは若返って、わしのように新たになる。
主はすべてしえたげられる者のために
正義と公正とを行われる。
主はおのれの道をモーセに知らせ、
おのれのしわざをイスラエルの人々に知らせられた。
主はあわれみに富み、めぐみふかく、
怒ること遅く、いつくしみ豊かでいらせられる。
主は常に責めることをせず、
また、とこしえに怒りをいだかれない。
主はわれらの罪にしたがってわれらをあしらわず、
われらの不義にしたがって報いられない。
天が地よりも高いように、
主がおのれを恐れる者に賜わるいつくしみは大きい、
東が西から遠いように、
主はわれらのとがをわれらから遠ざけられる。
父がその子供をあわれむように、
主はおのれを恐れる者をあわれまれる。
主は我らの造られたさまを知り、
われらのちりであることを
覚えていられるからである。
人は、そのよわいは草のごとく、
その栄えは野の花にひとしい。
風がその上を過ぎると、うせて跡なく、
その場所にきいても、もはやそれを知らない。
しかし主のいつくしみは、とこしえからとこしえまで、
主を恐れる者の上にあり、その義は子らの子に及び、
その契約を守り、
その命令を心にとめて行う者にまで及ぶ。
主はその玉座を天に堅くすえられ、
そのまつりごとはすべての物を統べ治める。
主の使たちよ、
そのみ言葉の声を聞いて、これを行う勇士たちよ、
主をほめまつれ。
そのすべての万軍よ、
そのみこころを行うしもべたちよ、
主をほめよ。
主が造られたすべての物よ、
そのまつりごとの下にあるすべての所で、
主をほめよ。
わがたましいよ、主をほめよ。
 
 (詩篇 103:1-22、口語訳)

1992年 説教

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