一つとなるために《ヨハネ 17:20-26》(1982 週報・説教要旨)

1982年8月22日、聖霊降臨節第13主日、
説教要旨は翌週の週報に掲載
礼拝後:広石教会(淡路島・五式町広石)会堂献堂式

(兵庫教区総会議長、神戸教会牧師5年目、健作さん49歳)

教区の諸教会を訪ねて

 兵庫教区の諸教会のことをあまり知らないまま議長の役を仰せつかったので、少しでも繋がりを求める意味で、二日間、鈴木副議長、北里書記と共に、阪神・北神の19教会を訪問した。教会の所在地、建築の様子、牧師館、幼稚園の状況、加えて、教会の日常の牧師及び夫人の姿に接し、安否を問い、あるいは共に祈り、益すること多き旅であった。

(1982年8月22日 神戸教会週報 岩井健作)


一つとなるために

ヨハネ福音書 17:20-26、説教題「一つとなるために」
”父よ、あなたがわたしに賜った人々が、わたしのいる所に一緒にいるようにして下さい。”(選句 ヨハネ 17:24)

 私たちはごく身近な人間関係、例えば、家族や職場の友達などの間で、協調していくとか和を保つとか、一致を得るということに絶えず苦労している。

 一致は、画一的になることや均質化することではない。

 だから支配力や規範によって実現するものではない。

 また内側の一致が保たれているからといって、外に対して排除や敵対関係を起こすようなあり方は、一致ではない。

 一人一人の自由を包含しつつ、緊張関係の中で心を砕いていくあり方の中にこそ、一致がある。


 聖書でこの問題を考えていく場合、いくつかの大切な箇所がある。

 しかし、今朝の日課、ヨハネ17章ほどにこの問題に根本的に取り組んでいるところは少ないのではないか。

 ヨハネ福音書の構造の中で17章はどんな位置を持っているのだろうか。

 1〜12章は、神から派遣された地上のイエスのわざが述べられ、13章は今年わたしたちの教会が兵庫に選んだ「洗足」の場面に見られるように、弟子たちへの戒め。

 14〜16章は「訣別説教」、そして17章は「イエスの祈り」である。


 一致について語られる箇所がまず《祈り》であることに目を留めたい。

 一致は、教えや戒めではない。

 祈り求められることである。

 このことは一致の根本性格に関係する。

 ヨハネは、一致を《父と子の関係》の中にみる。

 「父よ、それは、あなたがわたしのうちにおられ、わたしがあなたのうちにいるように、みんなの者が一つとなるためであります」(21節)とある。

 ”父よ、それは、あなたがわたしのうちにおられ、わたしがあなたのうちにいるように、みんなの者が一つとなるためであります。すなわち、彼らをもわたしたちのうちにおらせるためであり、それによって、あなたがわたしをおつかわしになったことを、世が信じるようになるためであります。”(ヨハネによる福音書 17:21、口語訳)

 それは、天なるものであって、この世のものではない。

 私たちが一致と思うものがせいぜい妥協か支配でしかないことでも分かる。

 第三に、一致は弟子たちによって《証し》さるべきものとして捉えられている。

 父と子の関係の、この地上への投影の役目である。

 映画のスクリーンの如き役割を負う。

 イエスは弟子たちのこの世への派遣について「悪しきものから守って下さい」(11節)と祈っている。

 ”わたしはもうこの世にはいなくなりますが、彼らはこの世に残っており、わたしはみもとに参ります。聖なる父よ、わたしに賜った御名によって彼らを守って下さい。それはわたしたちが一つであるように、彼らも一つになるためであります。”(ヨハネによる福音書 17:11、口語訳)

 そして最後にヨハネは、一致を永遠の場において、弟子たちがイエスと一緒にいることと述べる。

 ”「あなたがたは、心を騒がせないがよい。神を信じ、またわたしを信じなさい。わたしの父の家には、すまいがたくさんある。もしなかったならば、わたしはそう言っておいたであろう。あなたがたのために、場所を用意しに行くのだから。”(ヨハネによる福音書 14:1-2、口語訳)

 ”父よ、あなたがわたしに賜わった人々が、わたしのいる所に一緒にいるようにして下さい。天地が造られる前からわたしを愛して下さって、わたしに賜わった栄光を、彼らに見させて下さい。”(ヨハネによる福音書 17:24、口語訳)


 これは地上でというより、永遠の希望である。

 ここにヨハネの強調点もある。

 そしてその時代、迫害を受けた者たちへの力強い希望であったであろう。

 私たちも仲間内の和しか考えない日本的一致の状況に身を置いていると、一人一人が自由でありつつ緊張関係の中での愛にある一致を考えると途方に暮れる。

 しかし、キリスト者は、ヨハネ17章で祈られているような一致の質に向かって、希望を持つようにされた者である。

 途方に暮れつつ頑張りたい。

(1982年8月22日 説教要旨 岩井健作)


1982年 説教

1982年 週報

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