日本人と隣人《ルカ 10:25-37》(1982 週報・説教要旨)

1982年9月5日、聖霊降臨節第15主日、
説教要旨は翌週の週報に掲載

(兵庫教区総会議長、神戸教会牧師5年目、健作さん49歳)

レビ記 19:9-18、ルカ 10:25-37、説教題「日本人と隣人」
“「あなたも行って同じようにしなさい」。”(選句 ルカによる福音書 10:37、口語訳)

 山本七平氏は「日本人の隣人観」の中には、その博学を駆使しつつ、「隣人」について定義を下す限りの事を言うなら、中国も日本もユダヤ社会(聖書)もそんなに大差ない、と言っている。

 血縁、地縁という相互扶助の内うちの集団から始まって、果ては擬制の血縁としての氏族共同体にまで至ったとしても、結局は内うちの倫理が働いていることに変わりはない。


 ルカ10章の「よきサマリア人」の話にしても、強盗・祭司・レビ人など、一見ひどいよそ者のようでありながら、考えてみると、強盗は旅人を殺さないという点で(強盗は多分熱心党の一味で、民族独立闘争の資金づくりをやった。だから同族を殺しはしない)、また祭司らは旅人が死んでいるとでも思ったのか(祭司は死体処理の義務を免除されていた)先を急いだ、等々の点で、民族内うちの行動のなれの果てという感じがする。

 ところがサマリア人はそうではなかった。

 「隣人だから愛した」のではなく、一人の人の苦しみ、困惑、危急、悲しみのありのままを受容した。

 「愛したので隣人となった」。

 多くの日本人論に見られるように、「むら」意識の強い日本人の行動には、内うちの倫理が働いてしまい勝ちである。

 そして私たちも日頃の振る舞いを反省してみると、無意識のうちにそうなっていて、なかなかそれが破れない。

 これに対して「サマリア人のたとえ」は新しい倫理(エートス)への方向と可能性を示す。

 そしてイエスが「あなたも行ってそのようにしなさい」と語るとき、責めではなくて、促しを感じる。

“彼が言った、「その人に慈悲深い行いをした人です」。そこでイエスは言われた、「あなたも行って同じようにしなさい」。”(ルカによる福音書 10:37、口語訳)

 それはイエス自身が「よきサマリア人」であったからである。

 その背後には「神の救い」の現実が秘められている。


『日本人と隣人』(日本YMCA同盟 1981)の中に「柳宗悦と朝鮮」(李進熙)という一文がある。

 50年前に生きたこの日本民藝運動の先駆者は、朝鮮とその芸術をこよなく愛した人でもあった。

 この人は日本による朝鮮弾圧が熾烈な中、あえて朝鮮人の隣人たらんとした。

 ところが逆に「朝鮮人に味方せられて」(同書 p.105)いることを知って感動する。

 内うちの倫理を破った隣人とは、自分の方ではなく、気がついてみると、そんな具合に存在するものではないだろうか。

 「よきサマリア人」もそのようであった。


 私たちの日々は、鐘のように内うちの倫理の力に縛られて生きている。

 しかし主イエスの言葉はその現実を緩める。

 「あなたがたも行って」と。

 その言葉の真実に身を委ねて一歩を踏み出したい。

(1982年9月5日 説教要旨 岩井健作)


1982年 説教

1982年 週報

error: Content is protected !!