家族、その陰と光《マルコ 10:1-16》(1982 週報・説教要旨)

1982年9月12日、聖霊降臨節第16主日、
説教要旨は翌週の週報に掲載
岩井牧師出張:翌週9月19日、神戸北教会講壇、担任教師就任式司式
翌々週9月26日、明石愛老園教会の問安と講壇、
午後、はりま平安教会設立式司式

(兵庫教区総会議長、神戸教会牧師5年目、健作さん49歳)

イザヤ 54:1-7、マルコ 10:1-16、説教題「家族、その陰と光」岩井健作
“あなたの心が、かたくななので”(選句 マルコによる福音書 10:5、口語訳)


 今日の聖書日課(イザヤ 54:1-7、マルコ 10:1-16)のうち、マルコから学びます。

 これは「離婚問答」と「幼な子に対するイエスの祝福」という二つの物語伝承です。

 この二つは、それぞれにメッセージがありますが、続けて、一気に学ぶことから、語りかけられることは何だろうか、という点に心を注ぎたいと思います。


 「離婚問答」はパリサイ派の律法学者によって、イエスにふきかけられます。

 それは申命記24章1節にある「恥ずべきこと」の内容についての議論です。

 当時、ユダヤ教の中のシャンマイ派はこれを狭く「不貞」と解しましたが、ヒレル派は拡大解釈して「食べ物を焦げつかせた女」は離婚しても良いとまで言いました。

 本来この申命記の規定は、離婚のための一般法則ではなく、やむを得ない現実の事情の中で、不利な立場に陥らざるをえない妻の立場を保証しようとするものでありました。

 それをあたかも勝手きままな離婚を可能にする前提としようとしたパリサイ人に、イエスはその間違いを激しく指摘しているのが、この問答物語です。

 ここでは「心のかたくなさ」への告発がなされています。


 ”それから、イエスはそこを去って、ユダヤの地方とヨルダンの向こう側へ行かれたが、群衆がまた寄り集まったので、いつものように、また教えておられた。そのとき、パリサイ人たちが近づいてきて、イエスを試みようとして質問した、「夫はその妻を出しても差しつかえないでしょうか」。イエスは答えて言われた、「モーセはあなたがたになんと命じたか」。彼らは言った、「モーセは、離縁状を書いて妻を出すことを許しました」。そこでイエスは言われた、「モーセはあなたがたの心が、かたくななので、あなたがたのためにこの定めを書いたのである。しかし、天地創造の初めから、『神は人を男と女とに造られた。それゆえに、人はその父母を離れ、ふたりの者は一体となるべきである』。彼らはもはや、二人ではなく一体である。だから、神が合わせられたものを人は離してはならない」。家にはいってから、弟子たちはまたこのことについて尋ねた。そこで、イエスは言われた、「だれでも、自分の妻を出して他の女をめとる者は、その妻に対して姦淫を行うのである。また妻が、その夫と別れて他の男にとつぐならば、姦淫を行うのである」。”(マルコによる福音書 10:1-12、口語訳)


 その点「幼な子の祝福」も大人の「かたくなさ」に憤りがぶつけられます。

 ”イエスにさわっていただくために、人々が幼な子らをみもとに連れてきた。ところが、弟子たちは彼らをたしなめた。それを見てイエスは憤り、彼らに言われた、「幼な子をわたしの所に来るままにしておきなさい。止めてはならない。神の国はこのような者の国である。よく聞いておくがよい。だれでも幼な子のように神の国を受けいれる者でなければ、そこにはいることは決してできない」。そして彼らを抱き、手をその上において祝福された。”(マルコによる福音書 10:13-16、口語訳)

 そして、イエスは6節以下にあるように、また14節以下にあるように、男と女の出会い、そこで結ばれる夫と妻の関係、そしてそこに与えられる幼な子が、本来どんなに神から祝福されたものであるかを語ります。

 それは「家族」というものの祝福の姿です。

 そしてそれは恵みとして与えられるものです。

 それを壊す心のかたくなさこそが問題です。


 さて、今家族の問題を考えるとき、アルビン•トフラーが『第三の波』(翻訳・日本放送出版協会 1980)の中で言っているように、核家族中心の社会体制はその病理を露呈しつつ、多様な家族形態の時代に入っています。

 私たちの周囲を見ても、家族形態は多様化し、そこでの問題は複雑化しています。

 その時、私たちは家族形態がいかなるものであれ、そこで「心をかたくなにしてはならない」と思います。

 「モーセはあなたがたの心がかたくななので、あなたがたのためにこの定めを書いた」(マルコ 10:5)とあります。

 「心のかたくなさ」を破る処方箋を書くことがここでは教えられているのです。

 私たちの経験している家族問題はこの処方箋を必要としています。

 家族は陰と光を宿しつつ、根本的に《神の祝福の下に在る》というところに立って、この処方箋を書き続けていこうではありませんか。

(1982年9月12日 説教要旨 岩井健作)


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