神から人へ《ヨブ記 42:1-6》(1982 週報・説教要旨)

1982.8.8、聖霊降臨節第11主日、
説教要旨は翌週の週報に掲載

(牧会24年、神戸教会牧師5年目、健作さん49歳)

ヨブ記 42:1-6、ピリピ 2:5-11、説教題「神から人へ」
”わたしはあなたの事を耳で聞いていましたが、今はわたしの目であなたを拝見いたします。”(選句 ヨブ記 42:5)


 今朝の主日聖書日課のうち、ヨブ記から学びます。

 ヨブは豊かな資産と家庭に恵まれた信仰の篤い人でした。

 しかしこのヨブに苦難が襲い、財産、息子娘たちを奪い、そして腫れ物が身を冒します。

 破局の中でただ苦しみ、不条理を訴える以外に何一つない人間となります。

 ヨブ記を読むには「信仰的洞察の深さ、人間経験の豊かさが求められる」(新聖書大辞典 1971、浅野順一)と言われていますが、それだけにそこで追求されている主題は歴史を貫いているものがあります。

 なぜ不条理の苦しみを負わねばならないのか、という問いの持続はきわめて今日的でもあります。


 さて、旧約の根本テーマには「ただ『神』のみを神とする」(出エジプト記 20章に示されたシナイ契約の根本)という課題があります。

 ”あなたはわたしのほかに、なにものをも神としてはならない。”(出エジプト記 20:3、口語訳)

 サタンはヨブの信仰の篤さを見て「ヨブはいたずらに(無対価で、何か求めるものなしで)かみを恐れましょうか」と言います。

 ”サタンは主に答えて言った、「ヨブはいたずらに神を恐れましょうか。”(ヨブ記 1:9、口語訳)

 「神」を信じる、といっても、心の平安が得られるとか、人格が向上するとか、何か自分のプラスを求めての信心だという訳です。

 苦難の中で、信仰を失わなかったヨブは一見この点では及第点だと言えましょう。

 しかし彼は、不条理の苦難を「何故か」と激しく神に問い続けます。

 そして神の沈黙に悩みます。

 そして38〜41章で初めて神の声に接します。

 それはヨブの問いへの直接的答えではなく、叱責ともいうべきものです。

 「無知の言葉をもって、神の計りごとを暗くするものはだれか」(38:2)

 ”この時、主はつむじ風の中からヨブに答えられた、「無知の言葉をもって、神の計りごとを暗くするこの者はだれか。”(ヨブ記 38:2、口語訳)

 そして宇宙の現象と動物の生態が語られます。

 これは、ヨブの問いには直接答えない仕方で、問いそのものの問題性、すなわちあまりにも自分中心な問いの立て方が、神から逆に問われている事を示しています。

 続けて、神を神としていると言いながら、自分の問いの延長線上に在るべきはずの神を問題としているヨブが見事に砕かれていく姿が描かれています。

 それが42章5〜6節に示されています。

 ”わたしはあなたの事を耳で聞いていましたが、今はわたしの目であなたを拝見いたします。それでわたしはみずから恨み、ちり灰の中で悔います」。”(ヨブ記 42:5-6、口語訳)

 神を求めると言いながら、宗教の在り方までが「人から神へ」と人間中心的になっていく危険が鋭く見抜かれ、叩かれています。

 このことは、人間(自分)中心の文化への警告でもありましょう。

 聖書の「神」は、「人から神へ」の道が断念された彼方で、「神から人へ」と十字架のイエスに於いて人の不条理の傍らに立ち給う「神」であることがここにも示されています(ピリピ 1:5 以下参照)。

 ”あなたがたが最初の日から今日に至るまで、福音にあずかっていることを感謝している。そして、あなたがたのうちに良いわざを始められたかたが、キリスト•イエスの日までにそれを完成して下さるにちがいないと確信している。わたしが、あなたがた一同のために、そう考えるのは当然である。それはわたしが獄に捕らわれている時にも、福音を弁明し立証する時にも、あなたがたをみな、共に恵みにあずかる者として、わたしの心に深く留めているからである。”(ピリピ人への手紙 1:5-7、口語訳)

 不条理の中で打たれる自分を大切にしつつ、ヨブを愛された「神」に心を向けようではありませんか。

(1982年8月8日 説教要旨 岩井健作)


岩井牧師出張:15日(日)〜17日(火)
「子供とつくる生活文化研究会全国大会」YMCA六甲研修センター

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