1976年1月18日 岩国教会週報
「先週説教より」ルカ13:6-9
(岩国教会牧師11年度、健作さん42歳)
そのまわりを掘って肥料をやってみますから(ルカ13:8)
ぶどう園に補助的に植えられていた「いちじくの木」なのに、なお実を求められたというところからこの譬え話は始まります。「ぶどう園」なのだから「ぶどう」が良い実を結ぶというのは当然のことです。これは私たちが人間として当たり前の働きをして、世の中で実を結んでいくようなものです。家庭生活において、職業生活において、また社会生活さらには市民運動において努力していくのは、いわば「ぶどうの実」に属する働きです。「いちじくの木」(=信仰によって召された生き方)は、補助的にぶどう園にとって何か役に立てば良いようなものです。けれどもこの譬えでは、ぶどう園の主人はいちじくの木から「いちじくの実」を求めるのです。イエスに召され、そして従う者ならではの、十字架の負い方が問われ、その実が求められるのです。私たちが一生懸命にやったことの中で、「ぶどうの実」に属することとは別に、「イエスへの従い方の実」が求められています。「三年間も実をもとめて……いまだに見あたらない」(13:7)とは実に厳しい言葉です。私たちは自分の姿をそこに見てたじろぎます。しかしこの譬えでは、木は伐られたとも実を結んだとも記されてはいません。園丁が肥料をやること(いちじくへの施肥は異例です)と、いちじくの木には実を結ぶ時と可能性が残されていることだけは確かです。これはキリストに従う者の姿を示しています。私たちは十字架を負って生きる生き方を、自分の力で実を結ばせるのではなく「肥料を与えられて」という働き(=福音の力)に負うて、可能性に取り組むように召されています。実を結ぶ「いちじくの木」を目指して励んで参りたいと思います。
(1976年1月11日 岩国教会 岩井健作)


