待降節の希望(2010 礼拝説教・ローマ・待降節)

2010.11.28、明治学院教会(211)待降節 ①

(単立明治学院教会牧師 6年目、健作さん77歳)

ローマ 13:8-14

1.待降節とは何か。

「キリスト教で降誕祭(クリスマス)前4週間。旧約の民にならい、主キリストの誕生を祝う準備の期間。アドヴェント」(広辞苑)と説明される。

 教会暦はその第一主日から始まる。

 4世紀にはこの暦に合わせて聖書日課が整えられてきた。

 アドヴェントとは「到来」の意味。多くの教会で「ローマの信徒への手紙 13章11節」以下の「眠りから覚めるべき時」をこの季節の信仰的自覚として大切にしてきた。

2.日本最初期の讃美歌(神戸版讃美歌)に次の詩がある。

”くらきにねむるつみびとも
 じひのひかりにけふよりは
 ちりのうきよのゆめさめて
 うれしき身とはなりにける”

 そこには島崎藤村ら近代詩の源流があると指摘され評価されているものである。 

「慈悲」など仏教用語を用いてはいるが、日本の初代信徒が自分たちが縛られてきた価値観とその中に埋没している自分を自覚的に捉え、「覚める」という自覚で新しい生き方を把握している。

 当時「くらきにねむるつみびと」という自覚がどれほど、個の内面的深さを持っていたかは分からない。

 明治以降、封建的な縦社会の桎梏が壊れて、一人一人がどう生きるかの困惑があったかは分からない。

 多分「他力」の自覚であったであろう。

 しかし、とにもかくにも、以前の自分とは別の自分へと飛躍していることが、「覚める」こととして捉えられている。

3.「ロマ書」でパウロは「罪が増し加わったところには、恵みはなおいっそう満ちあふれました」(ローマ 5:20、新共同訳)と言っている。

「罪」や「恵み」の自覚は、信仰生活のそれぞれの段階で深化してゆくものである。

 一定の客観的規準に達するというものではない。

 自分が設けた規準からすらも自由にされるところに「眠りから覚めるべき時」の訪れがある。

 自分で思い込んだ規準からの解放を意味している(自己義認からの解放。パウロの神学的テーマでは、律法から解放されて福音へと入れられて行く転換に気付かされること)。

 これは、一回的なことではなく(もちろん初めの体験や契機の自覚はあるだろう)、しかし、繰り返される自覚である。

 信仰による生活が自覚される前から「既に」起こっていて、「今や」近づいている出来事である。

”夜は更け、日は近づいた”(ローマ 13:12、新共同訳)

 と認識されるかもしれない。内面の出来事への出会いである。

4.田中正造について林竹二さん(東北大学名誉教授・教育学、著書『田中正造の生涯』講談社現代新書 1976)はこう書いている。

 谷中村が権力によって破壊されてゆく場面で、知識人・木下尚江、行動者・田中正造の振る舞いが異なる。


正造の場合は一つのことを理解する、あるいは理解できるようになるのは、理解できなかった時の自分と別の人間になることであった。

「別の人間になる」とは「変わる」ことである。いや「変えられる」ことといった方がよいかもしれない。


「眠りより覚めるべき時」とはそういうものであろう。

 自分が「変わる」いや「変えられる」かもしれないというのは大きな希望ではないだろうか。

211-20101128

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