2010.11.21、明治学院教会(210)
◀️ 成長させて下さる神(2001 神戸・いずみ幼稚園)
(単立明治学院教会牧師5年目、牧会51年目、健作さん77歳)
コリントの信徒への手紙 第一 3:1-9
1.新約聖書の後半部はパウロの書簡が重みを占める。
パウロ真筆は「ロマ、コリントⅠ・Ⅱ、ガラテヤ、フィリピ、テサロニケⅠ、フィレモン」の7書簡。
今朝のテキストのコリント第一には「論敵」が鮮やかに浮かび上がる。「霊的熱狂主義者」と言われる人たちである。
パウロはかなり激しくこの論敵に対峙する。しかし、とことんやっつけるのではなく、論理(事柄)とその担い手(人)を区別し、人には教育的・牧会的に対処する。
コリント第一 3章はその例である。
パウロは「霊の人に対するように語ることができず」(3:1)とキツく言う。
”兄弟たち、わたしはあなたがたには、霊の人に対するように語ることができず、肉の人、つまり、キリストとの関係では乳飲み子である人々に対するように語りました。”(Ⅰコリント 3:1、新共同訳)
パウロは何か特別な「霊の人」という理想の宗教的人間像を持っていて、その基準で「あなたがたはまだ低い人間だ」ということを言っているのではない。
実は「霊の人」という言葉を用いているのは、コリント教会の中の論敵の人々なのである。彼らは当時流行りだった「グノーシス(知識)主義」の人間理解を、自分たちの信仰理解に据えて「信仰者は未熟者(肉の人)から完成者(霊の人)へと成長(発展)していくのだ」と考えていた。
そして、自分たちは「霊の人の段階にある」とその努力を誇り、自分たちが属している教会の人をランク(序列)づけしていた。とんでもない差別である。「成長」を自分たちに都合の良い信仰観念形態への取り込みと考えていたのである。
2.パウロは、神の前には基本的に皆「神の子」(1:9)であって、「あなたがたは賜物に何一つ欠けるところがなく」(1:7)と見なし、コリントの教会が《世の無学な者・世の無力な者・無に等しい者・身分の卑しい者・見下げられている者》(1:27-28)で構成されているのは、「だれ一人、神の前で誇ることがないようにするためです」(1:29)と、神の前の平等を逆説的に語っている。
”それは、だれ一人、神の前で誇ることがないようにするためです。”(Ⅰコリント 1:29、新共同訳)
十字架につけられたイエスの極限の無力さが「神ご自身の姿」であり、その前では、どんな功績も世の誉れも意味を持たない。
無力さへの自覚が、神の「救い」に通じるという。
3.だから「霊の人」という言い方は、皮肉を含んでいる。
「霊の人」だと自称する方には、本来の意味での「霊の人に対するように語ることができず、肉の人、(自己中心、自分本位、権威的、相手を蔑む、相手に耳を傾けない、自分以外のことは無関心、党派的な行動に埋没する等)、つまり、キリストとの関係では乳飲み子である人々に対するように語りました」と言う(Ⅰコリント 3:1)。
”兄弟たち、わたしはあなたがたには、霊の人に対するように語ることができず、肉の人、つまり、キリストとの関係では乳飲み子である人々に対するように語りました。”(Ⅰコリント 3:1、新共同訳)
ここで注目すべきは、「霊の人」か「肉の人」かの二者択一ではない。
一人の人格の中に、共存・併存・二重層としてある。
パウロは「肉の人」を「ただの人(人間的慣習に流されて、自分の判断・意志・決断を持って生きない)」と言い換える。
そんな「肉の人」が破られ、変えられていくことに「成長」を見る。
「大切なのは……成長させてくださる神」(3:7)だと言う。
”ですから、大切なのは、植える者でも水を注ぐ者でもなく、成長させてくださる神です。”(Ⅰコリント 3:7、新共同訳)
人間は一面ダメなところがある。だがしかし、神の御心の成就に向かって成長する。
その成長を司る方がいる、とは力強いことではなかろうか。
「極限の無力」に向かって成長するのが信仰の成長であろうか。
◀️ 2010年 礼拝説教