1976年1月11日 岩国教会週報
「先週説教より」ピリピ2:12-18
(岩国教会牧師11年度、健作さん42歳)
成長には無駄も必要だ、という趣旨の諺は多くある。例えば「一つも馬鹿げたことをしないで生きる人間は、彼自身で考えているほど賢明ではない」(ラ・ロシュフーコー)の如き。だが、そういった無駄にはまた救いがある。「伝道の書」(今年元旦からの聖書日課箇所)が、「日の下で人が行うすべてのわざを見たが、みな空(くう)であって」(同書1:14)というように、空(むな)しさに通じる無駄もある。張り詰めた日々の行動を呑み込むような空しさを経験するのが人生というものの底にはある。パウロは平易な論理で空しい無駄を意義づけはしない。「無駄」という言葉は、今日の箇所ピリピ2章7節では「おのれをむなしうして」とイエスの生き様の理解に用いられている。自分にとってむなしいものが、自分(自我)をむなしくしていくというイエスが示されたことを経験していく契機となるならば、空しさへの関わりも変わってくる。「むなしさへの関わりの中でキリストを学ぶ」、信仰者にはこういったことが許されている。これをパウロは「キリストの日」(救いの完成の日)には「労が無駄にならず」(2:16)と言っている。キリスト者の成長は、いわゆる教育における成長(他者から褒められたり、叱られたり、自己価値観の認識によって成長する)を越えたものがある。私たちは自分の情熱が白けてしまうようなことの中でも、もうひと踏ん張りしていくことを通して、成長していきたい。
(1976年1月4日 新年礼拝 岩井健作)


