歌うたう喜び(2006 讃美歌)

2006.8.20執筆、8.22(日)詳細不明

(明治学院教会牧師 2005/9-、73歳)

エフェソ 1:3 「私たちの主イエス・キリストの父である神は、ほめたたえられますように

「新しい歌を主に向かって歌え」と詩編(96、98、104編)は呼び掛けています。

 捕囚期以後、苦難の歴史を乗り越えてきたイスラエル民族は、歴史に働く神の救いの出来事を驚きを持って、讃美したのでしょう。

 その伝統を受け継ぐキリスト教会は、最初から、歌を歌う共同体として、詩編を礼拝の中心軸に置いてきました。

 阪神大震災の時、童謡や讚美歌を歌う事がどんなに励ましや力になったか。

 また人生の危機を、誰も居ない会堂で讚美歌を歌う事で乗り切ったか。

 牧会の中の経験です。

「讚美歌21」はどちらかというと、礼拝の歌に力がはいっています。

「54年版」は生活や信仰の敬虔に力点があります。

 両方の特徴を使いこなす事が大事ではないでしょうか。

 エフェソの信徒への手紙は、初代教会でも、組織・礼拝形式の整ってきた時代の作品です。「眠りについている者、起きよ。死者の中から立ちあがれ。そうすれば、キリストはあなたを照らされる」(エフェソ 5:14)は「洗礼小唄」といわれる初代教会の定式です。

 この書簡では、歌うことは苦難・沈滞から立ち上がることとして歌の意義をおいています。希望に繋げて「ほめたたえる」という語をたくさん用います。

 マルチン・ルーサー・キング牧師(1929-1968)に「真夜中に戸をたたく」という有名な説教があります。

「煮えくり返るような暑さ、監督の生皮の鞭、綿花畑の長い畝のほか何も待ち望むものがなかった。しかし、彼らは真夜中を生き抜いて、アメリカのためにもっとも美しい音楽を残したのである。」

 音楽は、理論の表現ではありません。その逆です。

 ブルトマン(1884-1976 神学者)は「信仰は無前提ではない、先行する人間の体験に接点を持つ」と言っています。

 その接点が、讚美歌の前提なのです。

 鶴見俊輔(1922-2015 哲学者)は『日本人のこころ』(岩波書店 1997)の中で、「僕は『君が代』も好きだ」といっています(ここはどうしても僕にはその感性はない)。でもそれは音楽というものの思想性なんだといいます。

 彼は「君が代」が国家(教育委員会・学校)によって強制されている事に猛然と反対運動を繰りひろげています。「君が代強制」がどんなに教師・子どもをトラウマに追いやっているか(精神医学者・野田正彰氏論考)。

 教会もかつては歌を歌う事まで国家に屈伏しました。

 誰にもゆがめられない自分の歌を、そして「教会のうたを」日曜日毎に歌ってゆこうではありませんか。

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