1978.6.5(月)、神戸女学院中高生、於神戸女学院大学チャペル
(神戸教会週報 1978.6.11に掲載)
(牧会20年、神戸教会牧師 1年目、健作さん44歳)
マタイ 5:4、説教題「悲しんでいる人たち」
”悲しんでいる人たちは、さいわいである。彼らは慰められるであろう。”(マタイ 5:4、口語訳 1955)
悲しんでいる人たちはさいわいである、と聖書に書かれている。
ちょっと考えると、悲しんでいる人は不幸であり、悲しんでいない人の方が、さいわいであるように思える。
でも聖書はそのようには記していない。
きっと、悲しみが何を意味するかを知っている人はさいわいである、という意味だろう。
この世が幸福だ、安泰だ、平和だ、と言って安心し切っている時、それを手放しで喜べない精神を持っている人たちは、さいわいだ、世の偽りと頼りなさを悲しんでいる人たちはさいわいだ、という意味であろう。
私は10年あまり山口県の岩国市に住んでいた。
錦帯橋といって五連のアーチ橋のある美しいところだが、また米軍海兵隊基地のある街でもある。
4,000から5,000人の海兵隊員という20歳前後の若者がいる。
そして基地問題という政治課題を別にしても、売春、アルコール中毒、麻薬、傷害、殺人、人種差別といった問題があって、人間がボロボロにされていくような、淀んだ問題が渦巻いている。
日米のキリスト教協議会が協力してこの地域のためにコミュニティ・センターの活動をしている。
黒人宣教師:ダグラス・マッカーサー氏が働いているが、彼は実に悲しい問題に関わっている。
昨年12月にも一人の女性が殺された。新聞の見出しによれば「客引き女殺される、水田に全裸体、犯人は米兵?岩国で未明」とあった。
20年間に7件もこんな事件があり、4件は未解決である。
彼女は生前、マッカーサー夫妻のところだけには、心を開いて生きることの悩みを相談に来ていた。
そして私たちは悲しみを秘めて追悼の祈りの集いをもった。「主よ、この深い罪の現実を贖(あがな)ってください。そして悲しみを共に負う者とさせてください」と。
この世の悲しみを負われたキリストを知ることは、私たちが世の悲しみに幾らかでも心を痛めることを通してではないだろうか、とこれほど感じたことはない。
キリストは十字架の死に極まる生涯を送られた。
このキリストに繋(つな)がっている時に、悲しみはどこか”開かれた”ものになってくる。
閉ざされた自分本位の幸福とは違う。
マルチン・ルターはこの箇所の「さいわい」を”幸福”(グリュックリッヒ)とは訳さないで”救い”(ゼーリッヒ)と訳した。
それにしても、聖書は「悲しんでいる人たち」と”複数”の悲しんでいる人々を描いている。
自分一人だけが悲しんでいるのではなくて、そういう人たちがおり、その繋(つな)がりの中で、キリストと出逢うことが示されているのは、深い慰めである。