1975年4月20日 岩国教会週報「先週説教より」
(岩国教会牧師11年、健作さん41歳)
たといわたしが、人々の言葉や御使たちの言葉を語っても、もし愛がなければ、わたしはやかましい鐘や騒がしい鐃鉢(にょうはち)と同じである。(第1コリント 13:1)
ここでパウロは何故「わたしが」といっているのだろうか。これがもし「あなたがた」といって、コリント教会の霊的熱狂主義者たちの異言(御使たちの言葉)や実際に自由人たちが奴隷になる行為(からだを焼かれる、3節)を戒めているものだとすれば、12章からの文脈もスッキリし、彼は説得力ある教師でもあるだろう。だのに「わたしが」と彼は言っている。そこには、パウロの中に、相手に寄り添い相手と同化してまでコリント教会の問題を負おうとする心情があることがうかがえる。だが、そこにさえ潜む自分の自己充足に気付けばこそ、彼はあえてその道を選ばないと宣言する(ピリピ 3:6から想像すれば、パウロも熱狂主義者に同化する素質はある)。そして、自分に(コリント人への)愛があるだろうかとの自省を経て、自分に強く迫るキリストの愛(第2コリント 5:14)ゆえに「寛容であり、すべてを忍び、信じ、望む」自分を発見する。愛は情によって流される生き方ではなく、神のみこころを意志的に生きることであるが、パウロがそこに留まり得ていることをうたったのがこの箇所ではあるまいか。「愛がなければ」は直訳すれば「私が愛をもっていなければ」である。私が愛を持っていることが暗に示されている。このことは自己の罪に滅入る者には驚くべき出来事(神の愛)への翻りであり、自覚である。
(岩井健作)
(報告欄より)
4月13日(日)臨時長老会
① 教会総会追加議題 岩井牧師の岩国東教会代務者就任の件
② 年間標語を「くだかれた教会」とする。
以上のうち、①については4月14日・15日の教団定議員会で教師検定問題に一定の方向性が出たため、岩国東教会の糸井国雄牧師の就任が可能となる見通しのため、総会では取り下げます。


