信仰と行為(1975)

1975年1月19日 岩国教会週報「先週説教より」

(岩国教会牧師10年、健作さん41歳)

『主よ、主よ』と言う者が、みな天国にはいるのではなく(マタイ 7:21)

 信仰と行為が離れたものになることが多い。傍目にそう見える場合もあるし、内面の亀裂であることもある。聖書は、一方において「価なしに、神の恵みにより、イエス・キリストのあがないによって義とされたのである」(ローマ 3:24)と教える。そこには翻って生きる基盤がある。だがそれが固定的、教条的に捉えられてしまうことの怖さというものも知らねばならない。他方「実によって…見わける」(マタイ 7:20)というように、信仰に導かれることは実際には身近な人の振る舞いを通してであるし、「神の恵み」もイエスの存在と振る舞いが私たちを捉えている。にわとりが先か卵が先かという議論と同じく信仰と行為は分け難い。切り離すことのできない矛盾や相克を竹の節を先へ先へと割って進むように、行き詰まりで戸惑いつつなお進むことこそ大切ではないか。

 『林文雄の生涯 – 救癩使徒行伝』(おかのゆきお著、新教出版社 1974)を読みかけている。この救癩の使徒といわれる人の歩みも、一途な信仰が行為を生み出し、その行為に自我の深みを洗い出され、奉仕の対象であった癩者自身との関わりの中で救いを教えられていく様が画かれていく。

 冒頭のイエスの言葉は『主よ、主よ』という信仰を否定し、行為を強調する面で受け取られがちだが、「みな天国に入るのではなく」という響きには観念的であるといわれる信仰にすら、大切なものが含まれていることが暗示されている。「つぶやかず疑わないで」(ピリピ 2:14)という激流を一気に超えるような生き方、信仰と行為とが一つの塊であるような生き方を絶えず求めていきたい。

(岩井健作)


BOX-1. 岩国教会所蔵史料

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