老人の日に(1974)

1974年9月15日 敬老の日
岩国教会週報

 「敬老の日」が、老人にとってただ敬われるだけの受け身の日ではなく、かつて「としよりの日」と呼ばれていたように、年寄りたちが老年期の自立を目指す日であり、皆がそのことを中心に考える日であってほしいと思う。老年期は、壮年期以前の生きる原理や価値観では生きられない。価値転換の時、それまでのものを断念する時とも言える(ポール・トゥルニエ)。老年期を力や発展の考え方で生き続けるならば、それはむしろ歪みとさえなる。老年期は、生の全体を想う時、精神の時、信仰の時である。先日、教会の敬老の会の席上、壮年のY兄がH老姉に「短期を起こしそうな時、どう克服されましたか」と問いかけた。H姉は我が意を得たりと頬をほころばせ「朝は30分、一人で祈る生活を続けてきました」と答えられた。力・方策・努力・忍耐といった手立てではもはや如何ともし難い人間関係のある人生の途上、その極みで自己の罪に死に続け、イエスのいのちに結ばれることによって、与えられた信仰による新しい価値観に生きる、真に力強い証しの言葉であった。人生の途上、価値観の転換を促された背後には、いずれかの意味で「一粒の麦の死」が秘められているに違いない。それが、単なる生への悟りや断念の受容に止まらないで、生きることへの自由、希望、落ち着き、ユーモアに開かれていくところに聖書の信仰の妙味があると思う。

 私たちの教会の高齢の方々が、青年や壮年という活動の季節とは異なった証しの時を過ごされていることに㐂び(よろこび)を憶える。そして、信仰の成熟において先輩であり続けていただきたいと思う。

(1974年9月15日 週報 岩井健作)


BOX-1. 岩国教会所蔵史

error: Content is protected !!